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狂歌 きょうか

6件 の用語解説(狂歌の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

狂歌
きょうか

短歌の一種。和歌に対して,狂体の和歌,すなわち純正でない和歌の義。ひなぶり (夷曲,夷振) ,えびす歌,狂言歌,ざれごと歌,たはれ歌,ざれ歌,俳諧歌,興歌,へなぶり,などの異名がある。古くは『万葉集』の戯笑歌,『古今集』の誹諧歌,軍記物語中の落首なども狂歌とみるべきであり,鎌倉時代には暁月房が詠じたといい,室町時代には『永正狂歌合 (きょうかあわせ) 』がある。

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デジタル大辞泉の解説

きょう‐か〔キヤウ‐〕【狂歌】

日常卑近の事を題材に、俗語を用い、しゃれや風刺をきかせた、こっけいな短歌。万葉集の戯笑歌(ぎしょうか)、古今集の俳諧歌(はいかいか)の系統で、江戸中期以後、特に流行。ざれごとうた。

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百科事典マイペディアの解説

狂歌【きょうか】

滑稽(こっけい),洒脱(しゃだつ),風刺を主旨とし,用語,題材とも自由な短歌形式の文学。源流は《万葉集》に求められるが,ことに近世に盛行。近世狂歌は,元禄前後から上方中心に流行の浪花(なにわ)狂歌,天明年間江戸中心に流行の天明狂歌の2流がある。
→関連項目江戸文学我楽多文庫唐衣橘洲窪俊満死絵摺物東海道名所記

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世界大百科事典 第2版の解説

きょうか【狂歌】

狂歌は狂体の和歌であり,和歌の形式に卑俗滑稽な内容を盛ったものである。狂歌は素材用語においてはまったく自由であり,〈縁語〉〈懸詞〉〈本歌取り〉を駆使しつつ日常卑近の事物・生活を詠ずる。古典のもじりは狂歌の方法の眼目で,雅を俗に転じてそこに滑稽感をかもし出す。その先蹤(せんしよう)は早く上代の《万葉集》の戯笑(ぎしよう)歌や無心所着(むしんしよぢやく)歌,中古の俳諧歌に求められる。狂歌という名目はすでに中古の《喜撰式》や《和歌肝要》に見える。

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大辞林 第三版の解説

きょうか【狂歌】

諧謔かいぎやくを主とし滑稽な趣を詠み込んだ卑俗な短歌。万葉集の戯咲歌ぎしようか、古今和歌集の誹諧歌はいかいかなどの系統で、各時代にわたって行われたが、江戸中期、天明年間(1781~1789)頃に大流行をみた。作家としては四方赤良よものあから(蜀山人)・宿屋飯盛やどやのめしもりなどが著名。戯歌。
常軌を逸したように歌うこと。 「我世夢ぞと-乱舞するのである/空知川の岸辺 独歩

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

狂歌
きょうか

江戸時代に盛んに行われた趣味的文芸。古典和歌の形式のなかに、卑近通俗な機知や滑稽(こっけい)を詠み込む。それには、(1)人のよく知る和歌、歌謡、成語など既成のものを踏まえて、それをもじる型(「ほととぎすなきつるあとにあきれたる後徳大寺の有明の顔」四方赤良(よものあから)=蜀山人)、(2)縁語、掛詞(かけことば)などの技巧だけで構成する型(「世にたつは苦しかりけり腰屏風(びょうぶ)まがりなりには折りかがめども」唐衣橘洲(からころもきっしゅう))、(3)心の狂だけの型(「ほととぎす自由自在にきく里は酒屋へ三里豆腐やへ二里」頭(つむり)の光(ひかり))がある。いずれにせよ、和歌の伝統的権威をはぐらかして言語遊戯を楽しむ姿勢が根本であって、単に滑稽な内容を詠む和歌の意ではない。
 鎌倉・室町のころ座興としてかなり行われたが、歌道神聖の意識が強いため、記録は許されず、その場限りの「言い捨て」が不文律となっていた。わずかに鎌倉時代の『狂歌酒百首』、室町時代の『永正狂歌合(えいしょうきょうかあわせ)』などが伝えられるが、それらは偶然いわば不法に残ったものである。
 狂歌は江戸時代に入ると、俳諧(はいかい)と並んで新しい文芸として認められた。笑いを喜ぶ時代の空気と平和の到来とがしからしめたのであるが、とくに、戦国武将でありかつ歌道の権威者でもある細川幽斎(ゆうさい)が速吟の頓知(とんち)の狂歌をよくしたことが世人の関心を集め、また門下の宮廷人、高僧など京都の上層階級の間に流行がおこったのである。ついで、その一員であった貞徳(ていとく)がこれを一般人士に紹介することに努めたので、いわゆる貞門俳人の多くは狂歌をもつくり、なかでも半井卜養(なからいぼくよう)、石田未得(みとく)、豊蔵坊信海(しんかい)などはとくに狂歌で聞こえ、かなり広く普及した。
 京都を中心とする初期の狂歌を、大坂の大衆に導入して浪花(なにわ)狂歌の大流行をおこしたのは、信海門下の永田貞柳(ていりゅう)である。狂歌は「箔(はく)の小袖(こそで)に縄(なわ)の帯」すなわち古典的様式と庶民感情との合一を目ざせと教えたが、古典の教養の乏しい大衆には困難で、全般的に低調卑俗に陥り、京都の初期狂歌の風流や機知とは異質のものとなった。
 浪花狂歌は名古屋、広島その他各地に広がったが、江戸には市民の気質にあわないため波及しなかった。しかし18世紀中ごろ諧謔(かいぎゃく)文学を喜ぶ機運のなかで、川柳や狂詩のような軽文学が始まり、また若い幕臣知識層の間に狂歌への関心がおこった。和歌を好む唐衣橘洲、すでに狂詩で名高い四方赤良が中心となり、このような狂名をつけて狂歌会を開き、平秩東作(へつつとうさく)、元(もと)の木網(もくあみ)など好学の町人も参加して、かなり水準の高い狂歌グループが発足した。その後しだいに同好者が増えて地区別の連中(れんじゅう)もでき、1783年(天明3)に橘洲が『狂歌若葉集』、赤良が『万載(まんざい)狂歌集』とそれぞれ狂歌撰集(せんしゅう)を出版したのが刺激となって、いわゆる天明(てんめい)狂歌の大流行がおこった。とくに四方赤良の古典和歌にとらわれない機知と滑稽味豊かな作風が喜ばれて一代を風靡(ふうび)し、他の文芸や絵画、演劇などにも大きな影響を与えて、江戸狂歌の最盛期を現出した。武士を中核とする天明狂歌は、寛政(かんせい)の改革(1787~93)によって町人中心へと変化し、作風も和歌に近い上品さを意図して、鹿津部真顔(しかつべのまがお)は狂歌の名を捨て俳諧歌と称した。これに対して真顔の競争相手であった宿屋飯盛(やどやのめしもり)(石川雅望(まさもち))は笑いを失ったのを非難して天明調を支持し、対立は文政(ぶんせい)年間(1818~30)まで続いたが、狂歌はすでに第一線の文学ではなかった。その後、真顔門下の源真楫(まかじ)が興歌(きょうか)とよぶことを主張したり、尽語楼内匠(じんごろうたくみ)が天明調復帰を説いたりしたが、すでに江戸狂歌、上方(かみがた)狂歌の区別もなくなり、おしなべて低俗に堕して幕末に至ったのである。[浜田義一郎]
『浜田義一郎他校注『日本古典文学大系57 川柳狂歌集』(1958・岩波書店) ▽水野稔他校注『日本古典文学全集46 黄表紙・川柳・狂歌』(1971・小学館) ▽狂歌大観刊行会編『狂歌大観』全3巻(1983~85・明治書院)』

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世界大百科事典内の狂歌の言及

【天明狂歌】より

…江戸後期天明年間(1781‐89)を中心とする狂歌。狂歌史上の黄金時代にあたる。…

【もじり】より

…したがって近世の俗文芸では,和漢の古典の〈雅〉の世界に当世の〈俗〉を見立てたり,こじつける趣向の〈もじり〉が多く見られる。たとえば,狂歌の本歌取りがそれで,〈七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞかなしき〉を〈山吹のはながみばかり金いれにみのひとつだになきぞかなしき〉と改変することにより,優雅な雰囲気を卑俗な当世風俗に一転させ,そこに滑稽を求めようとするなどである。この手法は戯作(げさく)において滑稽を生み出す有効な方法とされ,伝統和歌や四書五経の〈もじり〉は最も常套的な発想の一つであった。…

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