麦生田村
むぎうだむら
土橋村の北、神之川上流域の標高一六〇メートル前後の丘陵地に立地する。同川流域に平地が形成されている。集落は東部丘陵裾に点在する。
〔中世〕
薩摩国建久図田帳に伊集院のうちとして「続飯田八町 万得」とみえ、名主は権太郎兼直であった。図田帳の記載順から続飯田は麦生田に比定される。ただし喜入肝付家本の建久図田帳では「万得」の記載はない。大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)領である万得領の集計から、当地は万得領ではなく国衙領と推定されている。応安八年(一三七五)八月一一日の善喜譲状(比志島文書)に「麦生田」とみえ、紀姓伊集院氏一族とみられる善喜(時光)は相伝所領の麦生田内の「はいらく」・前原ほかを猶子の比志島久範に譲与している。一方、南北朝の内乱を経て勢力を伸ばした伊集院(島津)忠国の息義久が、麦生田氏を名乗っており(伊集院氏系図)、伊集院(島津)氏が当地を領したと思われる。義久の次男忠房は有屋田氏を号した(伊集院一流惣系図)。応永三年(一三九六)一月一一日、有屋田有久は亡父景雲追善のため本領である伊集院内折原名のうちの今寺二町二反・園・山野、山内堂地五反・園一所・山野、辻之堂・芦原七反、草水・松本五反・園一所・山野を広済寺に寄進している(「有久・清久連署寄進状」旧記雑録)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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