改訂新版 世界大百科事典 「島津忠良」の意味・わかりやすい解説
島津忠良 (しまづただよし)
生没年:1492-1568(明応1-永禄11)
戦国時代の武将。相模守。号は梅岳,法名は愚谷軒日新(じつしん)。中世に薩摩・大隅・日向の守護家であった島津氏の庶家島津伊作家の9代善久の嫡男として生まれ,のち島津相州家運久の養子となり,薩摩半島に勢力を扶植。島津本家勝久,島津薩州家実久らと抗争のうえ,守護職を子島津貴久のものとし,1550年(天文19)貴久が鹿児島へ入城してから加世田へ引退。その後も行者的宗教者的活動で貴久の領国統治を支援。とくに神儒仏の合一,四書五経と朱子学の推奨,〈いろは歌〉の作成などで家臣団統率にあたり,近世大名島津氏の領国形成の精神的な基盤をつくった。江戸時代から最近に至るまで,鹿児島では日新斎の名で親しまれてきた。島津氏中興の人とされているが,《島津国史》以後は本家の当主には数えられていない。《大日本史料》第10編1の永禄11年(1568)条に〈日新菩薩記〉など関連史料が収録されている。
執筆者:三木 靖
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報