黒木町(読み)くろぎまち

日本歴史地名大系 「黒木町」の解説

黒木町
くろぎまち

[現在地名]黒木町黒木

現黒木町域の北西部、黒木盆地の東端部に位置する。東で矢部やべ川に笠原かさはら川が合流する。東西に豊後別路が通る。鎌倉期、東の木屋こやに黒木助能が猫尾ねこお(黒木城とも)を築いて以来、黒木氏が代々居城。

〔中世〕

 文保元年(一三一七)九月一〇日の鎮西御教書(五条家文書/史料纂集)によれば、同年神山実祐と同為実との間で「黒木」菖蒲田などをめぐって相論となり、文書の真偽鑑定のため神山道信の後家尼信性の自筆状の提出が神山四郎入道に命じられている。元弘三年(一三三三)日念(建部清政)は当地のうちいま村五反などを妻の遺言どおり子息清光に譲り(同年一一月四日「日念譲状」市来政香蔵文書/鎌倉遺文四二)、建武元年(一三三四)清光が同所と思われる「くろきにすかむた五段」を益法師丸に譲っている(同年一〇月二五日「建部清光譲状」禰寝文書/南北朝遺文(九州編)一)。同三年三月八日足利尊氏は菊池武敏のいた黒木城攻撃を命じ(「北肥戦誌」など)、同月一七日大江通信らは城を攻撃・破却した(同月一八日「大江通信軍忠状」来島文書/南北朝遺文(九州編)一など)。翌四年当地などでの南朝方蜂起の風聞を知った今川助時は龍造寺一族に出兵を命じている(同年四月三日「今川助時軍勢催促状」龍造寺文書/南北朝遺文(九州編)一)。応安七年(一三七四)一一月一五日、田原氏能は黒木北河内きたがわち(現上陽町)に打寄せ、翌日黒木城衆を降参させている(同八年二月日「田原氏能軍忠状」入江文書/南北朝遺文(九州編)五)。山内通忠らは同月二五日に(同八年正月日「山内通忠軍忠状」山内家文書/南北朝遺文(九州編)五など)、式見兼綱は一二月に当地で宿直にあたっている(同八年二月日「式見兼綱軍忠状」姉川文書/南北朝遺文(九州編)五)


黒木町
くろぎまち

面積:一三五・四九平方キロ

八女郡の中央部から東部にかけて位置し、八女市の南東にあたる。南東は矢部やべ村、北東は星野ほしの村、北西は上陽じようよう町、西は立花たちばな町、南は熊本県鹿本かもと鹿北かほく町と接する。南部に(男岳、五三二・二メートル)(女岳、五九五・八メートル)、東部に石割いしわり(九四一・五メートル)などがある。町域の中央部を矢部川が西流、これに笠原かさはら川・田代たしろ川などが合流する。東西に延びる国道四四二号には西に長野ながの隧道、東に黒岩くろいわ隧道が設けられている。現町域は古代より上妻かみつま郡に属した。南北朝期には黒木城に菊池武敏が立籠って攻防があり、五条良氏が入ったことで南朝方の拠点となり、一時後征西将軍宮の御在所が置かれた。天正一五年(一五八七)当町域を含む上妻こうづま郡は筑紫広門の所領となった(筑後封植録)


黒木町
くろきまち

[現在地名]富山市辰巳町たつみちよう一丁目

門前もんぜん町・五番ごばん町の東に続き、東西に延びる両側町。東はいたち川に突き当り、北に並行して上金屋かみかなや町がある。田地方のうち。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図にみえ、前田利次による町割当初からの町。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理によると、町名は東方山中から黒木の薪・炭などが入ることによると伝えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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