日光学問所跡(読み)につこうがくもんじよあと

日本歴史地名大系 「日光学問所跡」の解説

日光学問所跡
につこうがくもんじよあと

[現在地名]日光市本町

日光奉行支配組頭役宅(目代屋敷跡)の西隣にあった。万延元年(一八六〇)日光奉行長谷川正直により松平越中守家来森伸介を師範とする学問所が創設された(「社家御番所日記」同年九月二日条)。すでに寛政三年(一七九一)の日光奉行所の改革以降、奉行配下の同心子弟らの文武奨励のため、春秋二度の学問素読吟味や鉄砲稽古などが行われていた(「日光在勤中控」東照宮蔵)。学問所の設置はそれまで個別的に行われていた教育を強化・拡充し、門戸を広げるためで、学問所規則覚書(「社家御番所日記」万延元年九月二日条)によれば、寺院坊中・諸給人・陪臣・百姓・町人聴聞は勝手と定められていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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