稲庭村(読み)いなにわむら

日本歴史地名大系 「稲庭村」の解説

稲庭村
いなにわむら

[現在地名]稲川町稲庭ほか

皆瀬みなせ川中流の河谷に位置し、北は三梨みつなし村、南は川向かわむこう(現皆瀬村)、東は畠等はたとう(現皆瀬村)に接する。

鎌倉時代に下野国の小野寺氏庶流が移り住んだと伝え、新城しんじようには正和五年(一三一六)の板碑が残る。南北朝時代には稲庭と川連の二家に分れていたようで、貞和五年(一三四九)の陸奥国先達旦那系図注文案(米良文書)に「出羽国山北山本郡いなにハ殿 かわつら殿此人々ハ大弐先達申て候」とみえ、大和阿闍梨房の弟子大弐房が先達をなしている。小野寺氏は戦国時代に横手よこて(現横手市)に進出するが、稲庭にはその一族が置かれたものと思われる。天正一八年(一五九〇)太閤検地の際の算用書写(色部文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、強い独立性を保っていた。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一千一〇二石とある。宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)では高は本田八三五石八斗九升一合、新田二八三石三斗四升、合計一千一一九石二斗三升一合(当高一千六四石三斗七升一合)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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