川向村
かわむこうむら
[現在地名]皆瀬村川向
北流する皆瀬川の上流に点在する支郷からなる。東は畠等村、北は稲庭村(現稲川町)、西は峰境に高松村・宇留院内村(現湯沢市)に接する。標高七〇〇メートル級の山々に囲まれ耕地は少ない。川に沿い増田村(現平鹿郡増田町)、稲庭村方面より小安村に通ずる脇街道が村を通る。
白沢の熊野神社に大永五年(一五二五)銘の懸仏が残り、その裏板墨書銘に「白沢」とみえる。藤倉の背後、宇留院内峠麓には藤倉城が築かれ、奥州和賀勢の押えとして小野寺氏の家臣小田嶋大力・黒沢長門守が配されたというが(柞山峯之嵐)、委細はつまびらかでない。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に稲庭の内仙翁村、稲庭の内板戸村、稲庭の内男安村とあり、高の記載はない。
川向村
かわむこうむら
[現在地名]緑区川向町・東本郷町、港北区小机町
丘陵や谷戸がなく、平地ばかりの村。南側、鶴見川の対岸は本郷村と橘樹郡小机村。小机村との間には川向橋が架かる。橋を渡る道は神奈川宿(現神奈川区)からの往還であり、小机村から当村の南部を過ぎて池辺村に達する。東は新羽村(現港北区)、北は大熊村・折本村・東方村、西は池辺村と接する。天正一二年(一五八四)一一月二三日の北条氏尭朱印状写(県史三)に「小机川向之百姓源左衛門・七郎左衛門」とある。かつては小机村の一部であったのが分村したと伝え、村名も小机からみて鶴見川を隔てた川向うに位置することに由来するという(風土記稿)。
川向村
かわむかいむら
[現在地名]由利町川西
子吉川の中流左岸、南は吉沢村、北は森子村に接し、西は由利原高原となる。集落は北から童子・神田・米山・新屋敷・奉行免と並び、これを結んで道(現国道一〇八号)が通る。
慶長一七年(一六一二)由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に川向村が滝沢領の一村として挙げられる。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に米山村・新屋敷村・奉行目村・大沢川村が記され、元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳には二〇九石八斗九升九合米山村、一〇九石三升八合新屋敷村(六郷主馬と相給)、一三九石八斗六升五合奉行免村、九石九斗六升一合大沢川村が記される。
川向村
かわむきむら
[現在地名]豊田市加茂川町
巴川の支流郡界川を隔てて南側にも川向村(現岡崎市)があり、北側の当村を北川向村とも称した。川向橋の上流約二キロには、幅七メートル・高さ三〇メートルの二層となって落ちる二畳ヶ滝がある。この付近は郡界川の南側にある石材に適した武節花崗岩地域と、これより北の伊奈川花崗岩地域の中間点に位置する。現東加茂郡下山村―中垣内を結ぶ滝見道が通る。村域には東垣内というカイト名が残る。
近世初めは幕府領、寛永二年(一六二五)に九久平陣屋鈴木市兵衛家領高五四石余と、同年滝脇陣屋松平乗清家領高七四石余の相給支配となり明治に至る。
川向村
かわむきむら
[現在地名]岡崎市川向町
村域北境に矢作川枝流の郡界川が西に向かって流れ、河岸段丘左岸のみに耕地と集落が立地。寛永郷帳では現豊田市の郡界川右岸の川向村と一村で加茂郡に属す。東は日影村、西は宮石村、南は丸塚村と各々山で接する。中世、下山庄に属すという。
天正一八年(一五九〇)岡崎城主田中吉政領、慶長六年(一六〇一)に幕府領に編入。寛永郷帳の村高は一二八石余。寛永二年(一六二五)に九久平陣屋(現豊田市)の鈴木政次知行所に郡界川の北側五四石余が編入し、北川向村と称した。川の南側は寛永四年に松平真次知行所に入り、知行村高は七四石余である。
川向村
かわむかいむら
[現在地名]八日市場市川向
荻野村の北に位置する。西を念仏川が流れる。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳に川迎とみえ、高五三石、旗本菅沼領で、平木組に属した。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高五四石余で、幕府領と菅沼領の相給。弘化二年(一八四五)の関東取締出役控帳では当村は高五三石余、家数一〇で菅沼領とあり、幕府領分は川向新田として別記され、高三四石余、家数一。
川向村
かわむきむら
[現在地名]設楽町川向
大名倉村の東にある。慶長八年(一六〇三)の検地を受け、高八五石余を検出。幕末の戸口は三五戸・二〇三人(北設楽郡史)。村内に貞享元年(一六八四)銘の庚申講の絵像碑があり、「尊庚申浮屠・皇風永扇・国土清平・五穀豊登 万民和楽 孫裔連綿 家門吉祥 一望願望 悉皆円成 貞享元甲子七月吉日 施主 三州川向村惣民中」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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