日本大百科全書(ニッポニカ) 「幸地賢忠」の意味・わかりやすい解説
幸地賢忠
こうちけんちゅう
(1623―1682)
琉球(りゅうきゅう)三味線音楽の確立者で、「湛水(たんすい)流」の祖といわれる湛水親方のこと。幸地親方賢盈(けんえい)の次男として生まれ、小赤頭として王室に出仕した。薩摩(さつま)に4回上り、要職を歴任し、のちに具志川間切(ぐしかわまぎり)総地頭職になった有能な官吏であった。踊奉行のとき、摂政羽地朝秀(はねじちょうしゅう)(向象賢(しょうしょうけん))の怒りに触れ、なお、ゆえあって官職を辞し、具志川間切田場(たば)村に隠居、剃髪(ていはつ)して湛水と号した。1676年(延宝4)首里に呼び戻され、御茶道頭役に命ぜられた。琉球古典音楽の確立者として名高く、彼の作として作田(つくてん)節、早作田(はいつくてん)節、首里節、じゃんな節、諸鈍(しょどん)節、揚作田(あげつくてん)節、暁節などが有名である。湛水流はのちに屋嘉比朝寄(やかびちょうき)が開いた「当流」に受け継がれた。
[當間一郎]