日本歴史地名大系 「アツタ場所」の解説
アツタ場所
あつたばしよ
近世の場所(持場)名。一七〇六年(宝永三年)マシケ場所などとともに設置されたという。天保郷帳に「アツタ持場之内 ヲン子トマリ・ヲンヨロコツ・アツタ」とある。「場所境調書」によると、北のハママシケ場所との境はかつて「ビシヤンベツ」(現浜益村)であったが、アツタ場所はアイヌが少なかったので「ビシヤンベツ」より南方のゴキビルまでマシケ場所に譲ったという。南のイシカリ場所との境はシュツプ。マシケ場所との境をめぐっては一七六六年(明和三年)以来知行主間で争論があり、六七年三月二五日にアイヌと相対のうえ申合せるよう命じられ、同月二八日内済となった。しかし以後もアツタ場所知行主高橋浅右衛門から訴えが重なり、七一年五月一〇日には「蝦夷次第」として却下されている(旧記抄録)。九〇年(寛政二年)境界はゴキビルとなった(浜益村史)。
一七〇〇年(元禄一三年)の支配所持名前帳によると「厚田鳥屋」一ヵ所が高橋浅右衛門知行。知行主は三九年(元文四年)頃は高橋文治(蝦夷商賈聞書)、近藤重蔵本「西蝦夷地分間」、「松前随商録」「西蝦夷地場所地名等控」でも高橋又左衛門であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報