厚田村(読み)あつたむら

日本歴史地名大系 「厚田村」の解説

厚田村
あつたむら

面積:二九二・八三平方キロ

明治四〇年(一九〇七)四月一日、一級町村制の施行とともに厚田村と望来(もうらい)村が合併して成立。一〇大字を編成する。石狩支庁管内北部にあり、厚田郡に属する。北は浜益(はまます)郡浜益村、南は石狩市、東は当別(とうべつ)郡当別町に接し、西は石狩湾に面する。北部は四〇〇―五〇〇メートル程度、南部の大字の望来村東部は二〇〇メートル程度の台地となっていて、北部から北東に濃昼(ごきびる)岳(六二一メートル)・円錐(えんすい)峰(六九〇・二メートル)・幌内(ほろない)山(六四八・八メートル)・別狩(べつかり)岳(七二六・一メートル)・別狩岳(六六六・二メートル)の山々が連なる。幌内山や両別狩岳を水源に、西部の海岸線のほぼ中央部へ向け厚田川が南西流して石狩湾に注ぐ。その北側に北から濃昼川・大沢(おおさわ)・幌内川の小河川、南側には古潭(こたん)川・嶺泊(みねとまり)川・望来川・正利冠(まさりかつぷ)川がおおむね南西流し、さらに南の知津狩(しらつかり)川がほぼ北流して石狩湾に至る。


厚田村
あつたむら

[現在地名]厚田郡厚田村大字厚田村

明治初年(同二年八月―同六年)から明治三五年(一九〇二)までの厚田郡の村。郡中央部、厚田川流域に位置し、北は安瀬(やすせ)村、南は別狩(べつかり)村。郡北東部の内陸まで広がり、北東部分の西は濃昼(ごきびる)村・安瀬村。近世はアツタと記録される地域。「石狩国地誌提要」によると戸口は五〇戸・六八人(永住四三四戸、男八五・女七六、寄留七戸・男七)。畑九段余、図合船三五・三半船一〇・ホツチ船四・磯船四二。


厚田村
あつたむら

明治三五年(一九〇二)の二級町村制の施行とともに厚田・安瀬(やすせ)・濃昼(ごきびる)・別狩(べつかり)・小谷(こたに)・押琴(おしこと)・古潭(こたん)の七村が合併して成立した厚田郡の村。旧村名を継承する七大字を編成。同四〇年一級町村制施行により望来(もうらい)村と合併して厚田村となる。厚田郡北部のほぼ三分の二を占める。西は石狩湾、村の北部は四〇〇―五〇〇メートル程度の台地となっていて、北部から北東に濃昼岳(六二一メートル)、円錐(えんすい)峰(六九〇・二メートル)、幌内(ほろない)山(六四八・八メートル)、別狩岳(七二六・一メートル)、別狩岳(六六六・二メートル)の山々が連なる。


厚田村
あつだむら

[現在地名]吾妻町厚田

榛名(はるな)山北西麓にあり、新井(あらい)で吾妻川に合流する温(ぬる)川と吾妻川の右岸の村。北西は温川を境に三島(みしま)村。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高二七七石余。寛文郷帳では田方六七石余・畑方一四〇石余。寛文三年(一六六三)沼田藩領新検地控によると九三三石余で、うち三七七石余が新居刑部給分。貞享二年(一六八五)沼田藩領再検地控では二一三石余。元禄郷帳では旗本土屋領。江戸後期の御改革組合村高帳によると旗本依田領一〇六石余・家数二七、同富永領一〇六石余・家数二八。


厚田村
あつたむら

[現在地名]糸魚川市厚田

大和川(やまとがわ)村・竹(たけ)ヶ花(はな)村の南、海(うみ)川をはさんで平牛(ひらうじ)村の対岸。糸魚川町からきた北陸道が海川を渡った地。村域内の城の腰(じようのこし)は田屋の金山(たやのかなやま)城大手からの道につながっていたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報