出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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改訂新版 世界大百科事典
「アルプ・アルスラーン」の意味・わかりやすい解説
アルプ・アルスラーン
Alp Arslān
生没年:1029-72
セルジューク朝第2代スルタン。在位1063-72年。トゥグリル・ベクの甥にあたる。西方へ版図を拡大し,特に1071年,東アナトリアのマラーズギルドの戦でビザンティン軍を破り,アナトリアのトルコ化に道を開いた。アッバース朝カリフを擁護し,宰相ニザーム・アルムルクの助けを得て,軍隊,行政組織,文化施設を整備した。ホラズム遠征の際,捕虜を処刑しようとして,逆に殺された。
執筆者:清水 宏祐
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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アルプ・アルスラーン
あるぷあるすらーん
Alp Arslān
(?―1072)
セルジューク朝第2代のスルタン(在位1063~1072)。セルジューク朝の創始者トゥグリル・ベグの甥(おい)にあたる。奴隷兵を中心とした強力な軍隊を擁し、トルコマン部族兵を西方へ進出させることによって版図を拡大した。とくに1071年マラズギルトの合戦でビザンティン軍を破り、アナトリアのトルコ化へ道を開いた。スンニー派イスラム、アッバース朝カリフの擁護者をもって任じ、ペルシア人宰相ニザーム・アルムルクの助けによって行政機構を整備し、東方イスラム世界の支配者となった。1072年ホラズム遠征の際、捕虜を処刑しようとして、逆に殺害された。
[清水宏祐]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内のアルプ・アルスラーンの言及
【セルジューク朝】より
…セルジューク朝の進出がモンゴルの侵入とは異なり,大きな混乱・破壊を伴わなかったのは,すでにイスラムに改宗し,〈信仰の擁護者〉として出現したためである。次の[アルプ・アルスラーン]は,グルジア,シリアへ遠征し,71年には東アナトリアの[マラーズギルドの戦]でビザンティン軍を破った。第3代スルタン,[マリク・シャー]の時代が最盛期で,版図はシリア,ホラズムから,東はフェルガナ,南はペルシア湾にまで達し,イエメンやバフラインにまで遠征軍を派遣した。…
【マラーズギルドの戦】より
…東アナトリアのワン湖北岸より約50km内陸部の城塞都市マラーズギルドMalāzgird近傍で,1071年に,ビザンティン軍と,[アルプ・アルスラーン]が率いる[セルジューク朝]軍との間で行われた戦い。数の上では劣勢のセルジューク軍が,奴隷軍人(グラーム)の働きによって大勝利を収め,ビザンティン皇帝ロマノス4世自身も捕虜となった。…
※「アルプ・アルスラーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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