日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルメニア」の意味・わかりやすい解説
アルメニア(アジア南西部)
あるめにあ
Армения/Armeniya
アジア南西部、アルメニア共和国から、トルコ北東部、イラン北西部にかけて広がる地域。大部分は標高1800~2400メートルの高原地域で、最高点はトルコのアララト火山(5123メートル)。ティグリス、ユーフラテス、アラクス各河川の水源地帯をなし、セバン湖、バン湖を含む。北西部は黒海に接する。『旧約聖書』ではこの地はミーニMinniの名称でよばれる。
[木村英亮]
歴史
アルメニアは文明発生地の一つである。紀元前9~前6世紀、バン湖周辺の小種族を統一してウラルトゥ王国が生まれた。この王国は内部対立とスキタイ人、メディアの侵入によって前590年ごろ崩壊し、前5世紀末アケメネス朝ペルシアがこの地方を征服した。これはアレクサンドロス大王、ついでセレウコス王国の支配と続くが、前190年セレウコス王国がローマに滅ぼされるとアルメニアは独立し、前95~前56年ティグラネス2世のときもっとも栄えた。しかし3世紀にはササン朝ペルシアに従属し、387年ローマとイランに分割された。なお、301年アルメニアはキリスト教を国教とし、396年、メスロプ・マシトツはアルメニア文字をつくった。7~9世紀はアラブの支配下に置かれたが、886年アショタ1世によって独立が達成され、大部分の地域が統一された。11世紀にはビザンティン帝国、セルジューク・トルコの、13世紀にはモンゴルの侵入によって荒らされ、16~18世紀にはオスマン・トルコとサファビー朝イランの争奪の的となり、1639年西部はトルコに、東部はイランに分割された。東部はおもにエレバン、ナヒチェバン両ハン国に属した。
ロシアは1826~1828年イランと戦って両ハン国の地域を獲得、アルメニア州を創設した。トルコ領の西アルメニアでは、エリズルム、アラプキルなどで東アルメニアとの統合を求める運動が高まり、1877~1878年のロシア・トルコ戦争の結果、カルスなどの地域がロシアに併合された。トルコは19世紀末と第一次世界大戦中、大虐殺を行い国内の多くのアルメニア人が欧米、近東、ロシアなどへ移住した。
1917年の十月革命後は、大衆的支持をえていた民族政党ダシナクツチュンがジョージア(グルジア)のメンシェビキ、アゼルバイジャンのムサバトとともにザカフカス委員部を組織し、1918年4月にはザカフカス連邦共和国を結成したが、対トルコ政策だけをとっても親ロシア的なダシナクツチュン、親トルコ的なムサバトが対立、1か月で解体し、アルメニアはトルコの占領下にダシナク政府を成立させ講和した。大戦におけるトルコ敗北後はイギリスの支持を頼りとしたが、1920年7月にイギリス軍がバトゥーミから撤退すると危機を迎える。トルコ政府は1920年8月調印のセーブル条約でアルメニアを承認していたが、ケマル・アタチュルクのアンカラ政府はこれを認めず、ソビエト・ロシアと国交を開いた。9月下旬トルコとアルメニアの間に戦闘が起こり、赤軍はおりからの蜂起(ほうき)に呼応してエレバンに入り、11月29日ボリシェビキのソビエト政権が成立した。
1922年アゼルバイジャン、ジョージアとともにザカフカス連邦共和国を結成、続いて、ロシア、ウクライナ、ベラルーシとともにソビエト連邦を結成した。トルコに対しては領土を譲らざるをえなかったが、ザカフカス諸民族間の紛争には終止符が打たれ、平和的な建設の条件がつくられたのである。1936年、ソ連憲法によってザカフカス連邦共和国は解散され、三つの共和国はそれぞれ直接にソビエト連邦の構成共和国となった。1991年ソビエト連邦解体で、3共和国はそれぞれ独立し、CIS(独立国家共同体)を構成している。
[木村英亮]
アルメニア(コロンビア)
あるめにあ
Armenia
南アメリカ北西部、コロンビア中西部、キンディオ県の県都。人口28万8977(1999)、30万2723(2019推計)。付近は肥沃(ひよく)な農業地域で、カウカ河谷のコーヒー生産地域の中心地として発展した。年平均気温23℃で気候は快適。コーヒーのほか、サトウキビ、果樹などの栽培が盛んである。1889年、1550メートルの高地に鉄道の終点として建設された。
[山本正三]