パレスチナ(読み)ぱれすちな(その他表記)Palestina

デジタル大辞泉 「パレスチナ」の意味・読み・例文・類語

パレスチナ(〈ラテン〉Palestina)

西アジアの地中海東岸、ヨルダン川以西の地域。おおむね、現在のイスラエルパレスチナ国の領域をさす。古くはカナンとよばれ、前12世紀ごろペリシテ人が定着し、名はこれに由来する。オスマン帝国の支配を経て、第一次大戦後は英国の委任統治領。シオニズム運動により移住したユダヤ人が1948年にイスラエルを建国し、先住のアラブ人との間で紛争が発生した。1993年にPLOパレスチナ解放機構)とイスラエルとの間で暫定自治協定(オスロ合意)が調印され、1996年にヨルダン川西岸ガザ地区に発足したパレスチナ自治政府は、1998年からパレスチナ国を称する。自治政府は2011年に国際連合に加盟を申請。翌年、正式加盟ではないがオブザーバー国家となった。→パレスチナ自治区
[補説]パレスチナの国連正式加盟に対し、常任理事国拒否権をもつ米国が反対の姿勢を示している。

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精選版 日本国語大辞典 「パレスチナ」の意味・読み・例文・類語

パレスチナ

  1. ( Palestina ) 西アジア、地中海東岸南部の地域。古くはカナンと呼ばれ、パレスチナの名称は紀元前一二世紀頃この地に定着したフィリスティア人に由来する。前一一世紀頃モーゼの指導下にエジプトを脱出したヘブライ人が前一〇世紀頃この地にイスラエル王国を建設。ソロモンの死後、イスラエル王国とユダ王国とに分裂した。前四世紀にはアレキサンダー大王の、前一世紀にはローマ帝国の支配下にはいり、のちイエス=キリストが生誕してキリスト教の聖地となった。六三六年、イスラム教徒のアラブ人が東ローマを破り、アラブ帝国領、オスマン帝国領を経て、第一次世界大戦後イギリスの委任統治領。第二次世界大戦後一九四八年ユダヤ人がイスラエル共和国を建国。以来アラブ諸国との紛争の地と化した。九三年イスラエルとPLOとの間で暫定自治協定が結ばれ、九四年五月、エリコとガザ地区でパレスチナ先行自治が開始された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パレスチナ」の意味・わかりやすい解説

パレスチナ
ぱれすちな
Palestina

シリアとエジプトとの中間、地中海東岸一帯をさす地方名。英語名パレスタインPalestine、『聖書』ではカナーンCanaanの地。その範囲は時代によって異なるが、第一次世界大戦後はイギリスの委任統治領パレスチナの意味に用いられ、通常その範囲をさすものとされてきた。西は地中海に面する南北に細長い地方で、東はヨルダン川とヨルダン地溝帯を境にヨルダン(旧トランス・ヨルダン)およびシリア、北はレバノン、南西はエジプトに接し、南端はアカバ湾に臨む。面積約2万7000平方キロメートル。およそ80%の地域がイスラエルの支配下にある。なお、ヨルダン川西岸地区(5655平方キロメートル)と地中海に面したガザ地区(365平方キロメートル)の6020平方キロメートルは、パレスチナ自治政府の区域である。

 東縁部を南北に走るヨルダン地溝帯は、幅10~20キロメートルの大陥没帯で、ティベリアス(ガリラヤ)湖、死海が横たわり、これらをつないでヨルダン川が南流する。中央部には、おもに石灰岩からなる高度1000メートル級の第三紀の褶曲(しゅうきょく)山脈が南北に縦走する。西縁の地中海沿岸には幅20キロメートルの海岸平野が広がる。北部は地中海性気候を呈し、冬に降雨がある。地域差もあるが、年降水量は500~600ミリメートルに達する。ヨルダン地溝帯および南部は乾燥気候下にあり、とくに南部は極度に乾燥してネゲブ砂漠が広がる。内陸部のエルサレムの年平均気温は16.1℃、最低は1月の7.7℃、最高は8月の22.7℃、年降水量は647ミリメートルである。古くからの農業地域で、とくに果樹栽培は広く知られ、ヨーロッパへの輸出が盛んである。ヨルダン川沿岸では商品作物の生産が行われ、大量の野菜がペルシア湾岸諸国へ送られている。イスラエルの工業には兵器産業、食品加工業、ダイヤモンド研摩業などがある。

[末尾至行・高橋和夫]

歴史

この地域は、人類史の曙(あけぼの)期の重要な舞台の一つであった。北のカルメル山洞窟(どうくつ)群から新石器時代に先だつナトゥーフ文化期の人骨や道具類が発見され、ネアンデルタール型と他のタイプの人骨は、人類進化の過程を解明するうえでの重要な標本としてとくに有名である。

 ヨルダン渓谷における農耕生活の始まりは紀元前8000年までさかのぼり、そこでは定住集落と高度に組織された共同体が形成された。その中心は泉の水を灌漑(かんがい)用水に利用したエリコであった。オアシスの町エリコ(死海の北約10キロメートル、海面下250メートル、地球上でいちばん低い町の一つ)は前7000年ごろすでに独自の文化をもち、堅固な要塞(ようさい)を巡らし石積みの巨大な円塔をもった世界最古の都市の一つであった。

 この地は古くはカナーンとよばれ、パレスチナという名称は、前13世紀末、地中海方面から東地中海沿岸平原南部に侵入し、同地に定着した海洋民族「ペリシテ(フィリスティア)人(の地)」の名に由来している。前11世紀、サウルが宗教的指導者サムエルと民衆の支持に基づいて、合法的な手続きを経てイスラエル王国初代の王に選ばれて即位、武将ダビデとの悲劇的な争いののち、ペリシテ人との戦いに敗れて3人の息子とともにイズレエル平原のギルボア山(標高536メートル)で陣没する。その後、武将ダビデが王位を継ぎ、拠点をヘブロンから南北いずれの部族にも属さないイェブス人の町エルサレムに遷し、同地を首都と定め、イスラエル・ユダ複合王国を支配した。次いでその子ソロモンが同地に神殿(第一神殿)および宮殿を建立、官僚国家の諸制度を確立し、黄金時代を築いた。ソロモンの没後、ソロモンの酷政とその子レハベアムの暗愚とにより、王国は、北王国イスラエル(サマリアをおもな拠点)と南王国ユダ(エルサレムを基盤)の二つの独立王国に分裂(前10世紀)、前者はアッシリアに(前8世紀)、後者は新バビロニアに(前6世紀)、それぞれ滅ぼされた。前538年、ペルシアのキロス2世の捕囚民に対する故国帰還許可令により、ユダヤ人捕囚民の多くがペルシア帝国支配下の属州ユダヤのエルサレムに帰還を開始し、前515年、神殿(第二神殿、~後70)を再建した。前332年にはアレクサンドロス大王に攻略され、前1世紀にはローマ帝国の支配下に入った。ユダヤ人は紀元後1世紀後半と2世紀前半の二度にわたってローマに対する反乱を起こしたが、ローマ軍に鎮圧され、エルサレムはローマ植民地「アエリア・カピトリーナ」と改名、ユダヤ人の立ち入りはいっさい禁止され、残留ユダヤ人の一部は、ローマ帝国各地へ送られ、流浪の民となった。ユダヤ人がその後独立を回復したのは、1800年余りのちの1948年であった。紀元後637~638年、第2代正統カリフ・ウマル1世がエルサレム(東ローマ領)に入城する。以後、パレスチナには、第一次十字軍によるエルサレム王国時代(1099~1187)を除いては、オスマン帝国領時代(1516~1917)を含めて、イスラム教徒(ムスリム)の支配が続いた。こうしてエルサレムを中心とするパレスチナは、同時に古来ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地であるという複雑な宗教的宿命を背負わされた。

 オスマン帝国領パレスチナは、第一次世界大戦後イギリスの委任統治領となったが、シオニズム運動以来(19世紀後半~)ユダヤ人のパレスチナ移住(帰還)は続き、これに伴いアラブ人のユダヤ人排撃運動も激化した。

 第一次世界大戦中のイギリスによるパレスチナ処理に関する相矛盾する宣言〔フサイン‐マクマホン書簡(1915~16)、サイクス‐ピコ協定(1916)、バルフォア宣言(1917)。戦後アラブの独立とユダヤ人の民族郷土(ナショナル・ホーム)建設をともにパレスチナの地に認める約束をしたもの〕を発端として、アラブ人、ユダヤ人間の複雑ないわゆるパレスチナ問題が起こった。紆余(うよ)曲折を経て問題は第二次世界大戦後に持ち越された。四次にわたる中東戦争(1948~49/1956/1967/1973年)を経て、1979年にはイスラエル、エジプト間に、1994年にはイスラエル・ヨルダン間にそれぞれ和平条約が結ばれた。1991年10月30日~11月1日のマドリードでの中東和平全体会議開催に次いで、イスラエルとパレスチナ解放組織の統合機関との間に和平交渉が進められていた。1993年にはワシントンで、イスラエルのラビン首相とパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長が、パレスチナ暫定自治合意(オスロ合意)に調印、イスラエル占領地のうちエリコとガザ地区でパレスチナ人自治を先行実施することで合意した。この功績により、アラファトとラビン、ペレスイスラエル外相は、1994年のノーベル平和賞を受賞するが、1995年ラビンがイスラエルの右翼に暗殺される。1996年1月には、パレスチナ自治政府の長官(2005年に日本政府は呼称を大統領に変更。アラビア語でライースRais)およびパレスチナ評議会議員(議席88)を選ぶ選挙が行われる。アラファトが長官に選出され、パレスチナ自治政府が成立した。1998年10月アメリカのクリントン大統領の仲介のもと、アラファトとイスラエルのネタニヤフ首相が中東和平実施の交渉に入り、合意文書(ワイ合意)に調印した。しかし、その後、聖地エルサレムの帰属問題、パレスチナ難民やユダヤ人入植者の問題、独立国家となるパレスチナの領土問題などをめぐり両者は激しく対立、またイスラエル軍とパレスチナ過激派武装勢力による攻撃の応酬が続いた。2002年、イスラエルはアラファトをヨルダン川西岸のラマッラーに軟禁した。2003年には、パレスチナ和平への行程表「ロードマップ」が、アメリカ、ヨーロッパ連合(EU)、ロシア、国連によって提示されたが、和平は進展しなかった。2004年11月、体調をくずしたアラファトが入院先のパリで死去。後任として、自治政府の初代首相(在任2003年4~9月)であったアッバスがPLO議長に就任した。またアッバスは2005年1月に行われた自治政府大統領選挙にも勝利した。しかし2006年1月のパレスチナ評議会選挙でイスラム原理主義組織ハマスが過半数議席を獲得。同年3月にハマス幹部のハニヤを首相とする自治政府内閣が発足した。イスラエルに対し強硬な姿勢をみせるハマス主導内閣が誕生したことにより、イスラエルとの関係が悪化、また自治政府でも内部抗争が激化した。2007年3月には非ハマス関係者を閣僚に加えた連立内閣が成立した。同年6月にはハマスはガザ地区を制圧、これを受けてアッバス大統領はハニヤ首相を解任し、ファイヤードを新首相に任命して緊急内閣を発足させた。この結果、パレスチナ自治政府はハマスが支配するガザと、アッバスを支持するPLO主流派組織ファタハが支配するヨルダン川西岸地区とに分断され、対立が続いている。

[高橋正男]

『高橋正男著『イェルサレム』(1966・文芸春秋)』『エドワード・W・サイード著、ジャン・モア写真、島弘之訳『パレスチナとは何か』(1995・岩波書店)』『浜中新吾著『パレスチナの政治文化――民主化途上地域への計量的アプローチ』(2002・大学教育出版)』『エドワード・W・サイード著、杉田英明訳『パレスチナ問題』(2004・みすず書房)』『臼杵陽著『世界化するパレスチナ/イスラエル紛争』(2004・岩波書店)』『奈良本英佑著『パレスチナの歴史』(2005・明石書店)』『松山健二著『武力紛争法とイスラエル・パレスチナ紛争』(2008・大学教育出版)』『土井敏邦著『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)』『森戸幸次著『パレスチナ問題を解く――中東和平の構想』(ちくま新書)』『立山良司著『イスラエルとパレスチナ』(中公新書)』『立山良司著『中東和平の行方』(中公新書)』『横田勇人著『パレスチナ紛争史』(集英社新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パレスチナ」の意味・わかりやすい解説

パレスチナ
Palestine

地中海東岸に位置し,ヨルダン川西岸地区を中心に,イスラエルの一部を含む地方。聖書時代はイスラエルとユダの両王国が分割,20世紀はユダヤ人とアラブ人の紛争の中心となった (→パレスチナ分割 ) 。またこの地方は「聖地」と呼ばれ,ユダヤ教,キリスト教,イスラム教それぞれにとって縁故の深い土地である。ユダヤ人のシオニズム運動と対抗してきたパレスチナのアラブナショナリズム運動は,1948年のイスラエル建国を機に一層強いものとなったが,これは7世紀のイスラムの征服以来,アラブ人が居住してきたパレスチナをアラブの故地であるとする主張である。パレスチナの名称はギリシア語のパライスチナに由来するが,これはペリシテ人の土地を意味するヘブライ語が語源となっている。前2世紀,ローマ人はシリア・パレスチナの言葉を,以前のユダ王国を含むシリア属州の南3分の1をさすのに用いた。第1次世界大戦後,イギリス委任統治領となって,ヨルダン川以西の土地にこの名称が公式に復活した。パレスチナの版図は,時代によりいろいろ変っている。しかし,そのなかには地中海沿岸平野からユダヤとサマリアの丘陵地帯にいたる地域が常に含まれている。東部のユダヤの荒野は断層をなすヨルダン渓谷地溝に落込み,南はネゲブ砂漠に達する。北ではエスドラエロン平野が,サマリアとガリラヤ山地を両分している。ダビデ王とソロモン王は,現在のレバノンやシリアを含みユーフラテス川にまでにいたる王国に君臨していた。気候は温暖な地中海性気候であるが,ヨルダン渓谷の北では,54℃の最高気温を記録している (→パレスチナ史 ) 。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「パレスチナ」の解説

パレスチナ
Filasṭīn[アラビア],Palestine[英]

地中海東岸の地域。いわゆる大シリアの一部にあたる。前1200年頃住みついたペリシテ人が語源。前10世紀にはイスラエル王国が建国,中心都市としてイェルサレムが建設された。ユダヤ教,キリスト教,イスラームの聖地を包括するため,十字軍などさまざまな勢力の興亡の舞台となる。16世紀以降オスマン帝国の支配下に入るが,19世紀頃からヨーロッパからのユダヤ人の移住が活発化する(シオニズム)。1948年のイスラエル建国をきっかけにパレスチナ問題が発生。94年からはアラブ人であるパレスチナ人による暫定自治が始まるが,現在もイスラエル人とパレスチナ人の対立が続いている。中心都市は聖地でもあるイェルサレム。

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旺文社世界史事典 三訂版 「パレスチナ」の解説

パレスチナ
Palestina

地中海南東岸,シリアとエジプトの間の地域。古名はカナーン。ユダヤ教・キリスト教・イスラームの聖地イェルサレムがある
ユダヤ(ヘブライ)人が初めてメソポタミアからこの地に来たのは前18世紀ごろで,モーセがエジプトから脱出してきたのは前13世紀である。ダヴィデとソロモンのときヘブライ王国は繁栄したが,以後アッシリア・新バビロニア王国・アケメネス朝・セレウコス朝の支配を受け,一時独立したが,ローマ領となった。ローマに対する反乱は失敗し,70年のイェルサレムの破壊とともにユダヤ人は四散した。6世紀からイスラーム勢力の拡大とともにアラブ人が移住し,のちセルジューク朝の支配を受け十字軍の誘因をつくった。16世紀初めから第一次世界大戦までオスマン帝国領で,戦後イギリスの委任統治領となった。19世紀末以来,シオニズム運動が発展し,第二次世界大戦後のイスラエル建国以降,アラブ民族との間に武力対決を含むパレスチナ問題を起こした。

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百科事典マイペディア 「パレスチナ」の意味・わかりやすい解説

パレスチナ

パレスティナ

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