セルジューク朝(読み)せるじゅーくちょう(英語表記)Saljūq

日本大百科全書(ニッポニカ) 「セルジューク朝」の意味・わかりやすい解説

セルジューク朝
せるじゅーくちょう
Saljūq

トルコ系の王朝(1038~1194)。カスピ海、アラル海北方方面より、10世紀末にシルダリヤ河口へ移住した族長セルジュークに率いられた一族は、イスラム化したトルコ人を集めて勢力をなし、その子イスマーイールはサーマーン朝、カラ・ハン朝、ついでガズナ朝と同盟して力を伸ばした。セルジュークの孫トゥグリル・ベク、チャグリー・ベクChaghrī Bek(987―1060)らは、1038年にネイシャーブールに無血入城し、1040年にはダンダーンカーンの戦いでガズナ朝軍を破り、ホラサーンの支配権を得た。1055年、トゥグリルはバグダードに入り、アッバース朝カリフより、史上初めてスルタンの称号を公式に受け、東方イスラム世界の支配者として公認された。次のアルプ・アルスラーンはジョージアグルジア)、シリアに遠征し、1071年には東アナトリアのマラズギルトでビザンティン軍を破り、皇帝を捕虜にした。第3代スルタンのマリク・シャー在位1072~1092)時代が最盛期で、版図は、シリア、ペルシア湾からホラズムフェルガナにまで達し、イエメンやバフラインにも遠征軍を派遣した。

 宮廷公用語はペルシア語で、ウマル・ハイヤーム(ウマル・アル・ハイヤーミー)らの文学者、ガザーリーらの神学者が輩出した。官僚はペルシア人が登用された。ニザーミーヤ学院を創設したニザーム・アルムルクはその代表的な存在で、彼の一族が代々宰相となった。軍隊は、初期には遊牧のトゥルクメンが中心であったが、やがて奴隷兵のグラームマムルーク)が重んぜられるようになり、総司令官、地方総督、イクターの保有者、幼少の王族の養育係であるアター・ベクなどの要職を独占した。国土は王族の間で分割されていたが、マリク・シャーの没後、一族間の内紛が激化し、グラーム優遇に不満を抱くトゥルクメンもこれに荷担した。歴代のスルタンは、西方へ進出する積極的な意図はなかったが、新たにマーワラー・アンナフルより流入したトゥルクメンや、反乱に失敗した王族らが新天地を求めてアナトリアへ移動し、ルームセルジューク朝や諸侯国を建てた。サンジャル(在位1117~1157)時代に一時王朝の再統一がなされたが、西方ではアター・ベク朝が独立し、東部州はカラ・キタイ、グズ人の侵入によって混乱し、サンジャル自身もグズの捕虜となって、スルタンの権威は失墜した。彼の死後、イラクとキルマーンにセルジューク家による地方政権が残ったが、前者はホラズム・シャー朝に、後者はグズによって滅ぼされた。

[清水宏祐]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「セルジューク朝」の意味・わかりやすい解説

セルジューク朝
セルジュークちょう
Seljuq; Saljūq

オグズ族の一分派であるセルジューク・トルコ族の建てたイスラム王朝 (1037~1157) 。 10世紀に族長セルジュークに率いられ,東方からシルダリア下流に移ってきてイスラム化した。その孫トグルル・ベグの時代にホラーサーンに進出し,王朝の基礎を築いた。彼は 1055年バグダードに入城して,アッバース朝カリフからスルタンの称号を受けた。第2代アルプ・アルスランは小アジア,シリア,アルメニア,パレスチナに進出。第3代マリク・シャー (在位 1072~92) の時代に最盛期を迎え,大宰相ニザームル・ムルクの補佐を得て,軍事的封建制 (→イクター ) を中心に国家体制を整え,多くの公共施設を建設した。セルジューク朝の拡大とその小アジアへの進出とはビザンチン帝国を脅かし,十字軍遠征の起因となった。マリク・シャーの没後,王朝は分裂し,カラ・キタイ (→西遼 ) の侵入とオグズの反乱のうちに滅びた。この王朝はイスラム帝国としての統治機構と文化とをもったが,軍事機構にはトルコ的形態が強い。ガザーリーやオマル・ハイヤーム,ニザーミーのような学者,文人を輩出し,ニザーミヤ学院が各地に建てられ,イスラム文化の発展に貢献した。なお,この大セルジューク朝から分裂した小王朝をそれぞれ,ケルマーン・セルジューク朝 (41~1186) ,アナトリア (ルーム) ・セルジューク朝 (1077~1307) ,シリア・セルジューク朝 (1078~1117) ,イラク・セルジューク朝 (17~94) と呼ぶ。

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