イギリス領西アフリカ民族会議(読み)イギリスりょうにしアフリカみんぞくかいぎ

百科事典マイペディア の解説

イギリス領西アフリカ民族会議【イギリスりょうにしアフリカみんぞくかいぎ】

略称NCBWA。ゴールド・コースト(現ガーナ)のジャーナリスト弁護士でもあったヘイフォードJ.E.Casely Hayford〔1866-1930〕の主導によって,イギリス領西アフリカ各植民地の枠組みを超えて創設されたナショナリスト的な組織。第1回目の会議は,イギリス領西アフリカのガンビア,ゴールド・コースト,ナイジェリア,シエラレオネの4つの植民地代表者を集めて1920年3月にアクラで開催された。1930年のヘイフォードの死去とともに衰退したが,のちの西アフリカにおけるナショナリズム運動に大きな影響を与えた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

イギリス領西アフリカ民族会議
イギリスりょうにしアフリカみんぞくかいぎ
National Congress of British West Africa; NCBWA

ゴールドコーストのアフリカ人弁護士 J.ケイスリー=ヘイフォードによって,1920年3月アクラで創設されたイギリス領西アフリカの先駆的民族主義組織。弁護士,牧師,ジャーナリスト,医師商人などから構成された知識人民族主義者の党であった。それだけにイギリス植民地主義への対決姿勢をほとんど示さず,各植民地の立法評議会のアフリカ人議席を増加させるといった,体制内的,漸進的改革を請願する程度の活動にとどまった。創設から 10年後の 30年,ケイスリー=ヘイフォードの死によって事実上消滅した。

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世界大百科事典(旧版)内のイギリス領西アフリカ民族会議の言及

【ガーナ】より

… イギリスはすでに1874年に立法審議会と行政審議会を設置し,ゴールド・コースト統治の本格的制度化に着手していたが,これに対して両審議会のアフリカ人議席の増加要求や直接税課税制,土地法などへの反対を中心に,アフリカ人の政治運動が起こり,97年には原住民権利擁護協会(ARPS)が組織された。しかしナショナリズム運動が真の萌芽期を迎えるのは第1次世界大戦後で,1920年に弁護士ケースリー・ヘイフォードJ.E.Casely Hayford(1866‐1930)がイギリス領西アフリカ民族会議(NCBWA)を創設してからである。NCBWAはゴールド・コーストの知識人エリートを主力とし,ナイジェリア,シエラレオネ,ガンビアの知識人エリートをも加えた,イギリス領西アフリカ全域にわたるナショナリズム組織であり,将来における自治の達成を目標として漸進的な運動を展開したが,30年ケースリー・ヘイフォードの死とともに消滅した。…

※「イギリス領西アフリカ民族会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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