カタルーニャは、スペインとフランスにまたがる、バルセロナを中心とする地域で、独自の言語と歴史、そしてなによりも中世からの独自の集合的アイデンティティ(同じ土地の民という意識)とメンタリティ(議会主義と合意を重視する政治文化)をもつ地域である。また、スペインでは珍しく商工業が歴史的に盛んで、同地のGDPはスペイン全体の約20%を占める。
カタルーニャで独立支持が明確に高まり始めるのは2010年以降のことで、それまでは独立支持は20%に満たなかった。同地で独立主義が高まった要因には、二つの密接に結びついた出来事が連続して起こったということがある。一つはカタルーニャの新自治憲章に対する違憲判決(2010年)で、もう一つはラホイMariano Rajoy Brey(1955― )国民党政権の誕生(2011年末)と再中央集権化である。この二つの出来事によって、スペイン国家のマルチ・ナショナルな側面が否定されるとともに、カタルーニャは、独自のアイデンティティと自己決定権をもつ「政治的主体という意味でのネーション」であることを否定され、同地の自己決定権は大幅に後退した。
日本では、2008年から始まるスペインの経済危機によって、カタルーニャでスペイン中央政府による税の配分の仕方に、いわば利己的に不満を強め独立を望む人が増えた、というような説明がしばしばマスコミによってなされてきたが、それは実際の要因とはかなり異なる。
[奥野良知 2018年9月19日]
フランコ独裁体制(1939~1975)後の1978年に制定されたスペインの現行憲法は、異なる国家観に基づく諸勢力の妥協の産物として誕生したもので、第2条で「スペイン・ネーション(スペイン国民)」の不可分性と一体性を強く強調しつつも、そのなかには、カタルーニャ、バスク、ガリシア(第二共和制期(1931~1939)に自治州と認められたものの、フランコ独裁体制によって廃止された)を念頭に置いて、「複数のナショナリティ」が存在するとしている。ここでいう「ナショナリティ」とは、ネーションに類似する意味で用いられていると推測されているものの、その定義はどこにも書かれていない。そのためこの憲法は、スペインを、一つの国家(ステート)に一つのネーションしか認めないユニ・ナショナルな国家(いわゆる国民国家=ネーション・ステート)であるとしているか(その場合、ネーション=国民の形成は、多数派集団であるカスティーリャの言語・文化・歴史・価値観等々を基準に形成されることを意味する)、それとも、その反対に一つの国家(ステート)に複数のネーションが存在するマルチ・ナショナルな国家であるとしているのかをめぐって、多様な解釈が存在する。
とはいえ、最終的にはカタルーニャ、バスク、ガリシア以外の諸地域も自治州となり、しかも1982年には、上記3自治州とそれ以外の自治州の違いを限りなく小さくする自治プロセス調整組織法が制定されるなど、憲法にかいまみえるマルチ・ナショナルな側面は、弱められていった。カタルーニャは中央政府との交渉によって、委譲される権限を少しずつ増やしていったものの、そのことは、同地の自己決定権(裁量権)の拡大をかならずしも意味しなかった。加えて2000年に、国民党(スペイン・ナショナリズムの右派政党)が絶対過半数を獲得し、ユニ・ナショナルな国家観に基づいてカタルーニャ批判を強めた。
以上のような状況を受けて、また、2004年に社会労働党が中央政府の政権を奪取し、首相サパテロJosé Luis Rodríguez Zapatero(1960― )がスペインのマルチ・ナショナルな側面を強調する発言を展開したこととも相まって、カタルーニャでは自治州の憲法に相当する自治憲章の改正作業が開始され、新自治憲章は2005年に州議会で可決された。重要な内容が少なからず削減されたものの2006年に国会でも可決され、カタルーニャでの住民投票を経て成立した。新自治憲章が意図したのは、カタルーニャを自己決定権をもつ政治的主体としてのネーションと規定し、スペインが明確なるマルチ・ナショナルな国家であることを示すことであった。
しかし同2006年、当時野党であったラホイ党首率いる国民党は、この新自治憲章を、「スペイン・ネーション(スペイン国民)の一体性」を定めた憲法に反するとして憲法裁判所へ提訴し、2010年6月新自治憲章に対して違憲判決が出された。この判決によりカタルーニャはネーションとして否定され、スペインは「スペイン・ネーション」のみからなるユニ・ナショナルな国家であるとする憲法解釈が定まってしまった。また、カタルーニャの自治権・自己決定権は、新自治憲章が成立した2006年以前の状態よりも後退した。
[奥野良知 2018年9月19日]
ラホイ国民党は、2011年末の選挙で勝利し政権の座につくと、新自治憲章の違憲判決により定まったユニ・ナショナルな憲法解釈に基づき、再中央集権化(フランコ時代以来の中央集権化)を開始した。ラホイ政権による再中央集権化は、二重行政解消の名目でカタルーニャ自治政府の多くの機関やテレビ局を削減の対象にしたり、「カタルーニャの子供たちをスペイン化する」との目的で、カタルーニャの言語・文化や教育制度(カタルーニャ語を教育言語とすることで、カタルーニャ語とカスティーリャ語=スペイン語のバイリンガルを育成する制度)に圧力をかけたり、財政的締め付けを強めたりするなど、多岐にわたる。ラホイ政権の政治手法の特徴は、対話や交渉を行わず、憲法裁判所を多用・濫用し、政治を司法化することにある。ラホイ政権は、カタルーニャ自治州議会が可決した闘牛禁止法、ライフライン法(電気やガスの供給会社に対して、料金を払えない利用者が出た場合、供給を停止する前に、利用者の住む自治体へ報告する義務を定めた法律)、原子力由来電力への課税法、等々を憲法の定める「スペイン・ネーションの一体性」に反するとして憲法裁へ提訴し、次々と違憲判決が出された。
このように、ラホイ政権によってカタルーニャの自己決定権は次々と否定され、自分たちのことを自分たちでなにも決められないという強い閉塞(へいそく)感が生じたことで、同地では独立支持が急増し、多いときには50%近くにまで達するようになった。「ラホイ政権は独立主義者を量産する工場」といわれるゆえんである。
[奥野良知 2018年9月19日]
この結果、2014年から独立に向けた「プロセス」が始まることになるが、州議会が可決した独立の是非を問う住民投票に関する一連の法律に対しては、憲法の定める「スペイン・ネーション(スペイン国民)のゆるぎない統一」に反するとして次々と憲法裁から中止命令が出され、同年11月9日に行われた非公式の住民投票(通称9N)も違憲とされた。また9Nを実施した廉(かど)で当時の自治政府首相マスArtur Mas i Gavarró(1956― )が起訴され、2017年3月に憲法裁の中止命令への不服従の罪で3万6500ユーロもの支払い命令が出ている。2016年10月には、住民投票に関する議論を自治州議会で許可した罪で、州議会議長のフルカデイCarme Forcadell i Lluís(1955― )が起訴されている。
このようなスペイン政府の対応は、スコットランドに対するイギリス政府の対応や、ケベックに対するカナダ政府のそれとはまったく異なるものである。イギリスやカナダは自らをマルチ・ナショナルな国家であるとし、スコットランドとケベックをネーションと認めている。
税の配分問題に関しては、カタルーニャ自治州には、特別財政制度下にあるバスク自治州やナバラ自治州がもっている徴税権がないことに加え、物価を考慮した一人当りの税の配分額は、一般財政制度下にある15自治州中14位(2014年度)で、同州の財政赤字は毎年約8%に達する。同州への低いインフラ投資もつねに問題となっている。つまり、税の問題も、自己決定権の問題の一環として考える必要があり、単なる金銭的損得勘定が独立の要因なのではけっしてない。
[奥野良知 2018年9月19日]
カタルーニャ州議会は、2016年10月、独立に向けたロードマップを可決し、独立の是非を問う住民投票に関し、翌2017年6月までは中央政府の合意のもとで行うよう努力するが、合意が得られない場合でも、秋には実施するとした。結局、中央政府の合意は得られず、住民投票の実施は2017年10月1日と定められた。
同年9月20日、中央政府は、州政府高官14名を住民投票の準備を進めた罪で逮捕した。これに対し、同日午後、独立運動を主導してきたカタルーニャ国民会議(ANC)と文化オムニウムという二つの市民団体の呼びかけで、大規模な抗議集会が行われた。
そして、10月1日に住民投票が実施されたが、投票にきた市民にスペイン警察によって暴力が振るわれた。負傷者は1066人に達し、319の投票所が閉鎖された。投票率は43%、独立賛成は90%であった。カタルーニャでは10月3日に独立を求めるゼネストが実施されたが、同日、国王は会見を行い、カタルーニャ自治州政府を強く非難した一方で、スペイン警察による暴力にはいっさい触れなかった。
独立を阻止するために中央政府が物理的手段に訴えるという事態を想定していなかったカタルーニャ州政府は、その後の方針をめぐって揺れ動いた。
カタルーニャ自治州政府首相プッチダモンCarles Puigdemont i Casamajó(1962― )は、ヨーロッパ理事会(欧州理事会)議長トゥスクDonald Tusk(1957― )から「カタルーニャとスペインは対話すべきである」という連絡を受けていた。これを「EU(ヨーロッパ連合)に仲介の意思がある」と解釈したプッチダモンは10月10日、州議会に投票結果を伝達したものの、国際社会(とくにEU)による中央政府との交渉の仲介を期待して、独立宣言発効の一時的停止を州議会に要請し、承認された。だが、トゥスクによる仲介が行われることはなかった。
確かに、ベルギーは国際社会による仲介の必要性を強く主張し、スイスや「エルダーズ」(元国連事務総長アナンが代表を務める国際人道グループ。元南アフリカ大統領マンデラによって設立され、元アメリカ大統領カーターもメンバーの一人)は仲介に動き出したものの、中央政府が応じることはなかった。また、ヨーロッパ委員会(欧州委員会)委員長ユンケルJean-Claude Juncker(1954― )は、カタルーニャ問題はあくまでスペインの国内問題であり、ラホイ政権を全面的に支持するとした。
他方、中央政府は、10月16日、独立運動を主導してきたカタルーニャ国民会議代表、ジョルディ・サンチェスJordi Sànchez i Picanyol(1964― )と、文化オムニウム代表のジョルディ・クッシャルJordi Cuixart i Navarro(1975― )を、9月20日の抗議集会を組織したとして騒乱罪で逮捕した。また中央政府は、独立宣言を完全に放棄しなければ、憲法155条(国家の利益に反する行動をとった自治州の自治権を停止できるとした条項)を適用すると通告していたが、仲介に動いていたバスク自治州政府首相ウルクーリュIñigo Urkullu Renteria(1961― )の、カタルーニャ自治政府が州議会選挙を実施すれば155条の適用を免れうるとする言に従って、プッチダモンは議会選挙の実施に動いた。だが独立派内で異論が多く、また、中央政府が議会選挙を実施しても155条の適用を免れえないとしたことで、プッチダモンは10月27日にカタルーニャ共和国の独立宣言に踏み切り、同日、中央政府は同州の自治権を停止した。
これに対する州政府の動きに注目が集まったが、スペイン軍が独立を阻止するために実力行使に出る準備をしているとの観測や、「独立を実行に移せば大量の死者が出る」と中央政府が州政府に忠告してきた(中央政府は否定)ため、州政府は、ベルギーのブリュッセルに亡命政府をつくることにしたが、最終的に州政府閣僚ひとりひとりの判断に委ねられることとなった。その結果、閣僚はベルギーに亡命する組(プッチダモンはこちら)とスペインに留まる組に分かれることとなった。そして、国家反逆罪の廉で全閣僚にマドリードにある最高裁への出頭命令が出され、スペインに留まった閣僚は、出頭後に予防的措置としてマドリードの刑務所に収監された。
[奥野良知 2018年9月19日]
中央政府は、カタルーニャ州を直轄下においた状態で、12月21日に自治州議会選挙を実施した。だが、中央政府の思惑は外れ、独立派3党(カタルーニャのための連合、カタルーニャ共和主義左派、人民連合)が絶対過半数の68議席を上回る70議席を得てふたたび勝利した。独立派は、ベルギーに亡命中のプッチダモンを州政府首相候補としたが、中央政府は認めず、ついでカタルーニャ国民会議元代表で先の選挙で獄中の身ながらも議員となったジョルディ・サンチェスを候補としたが、これも認められず、組閣は難航した。
一方、カタルーニャ問題は、確実に国際問題化していった。スペイン最高裁は、ベルギーに亡命していた5名の元州政府閣僚に対して国家反逆罪の廉で欧州逮捕状を出していたが、ベルギーの司法当局がその罪状を否定する可能性が高くなってきたことから、欧州逮捕状を撤回した。
これにより、彼らは、スペイン以外は自由に行き来ができることになり、プッチダモンは2018年に入ってから、デンマーク、スイス、フィンランドに赴いて、議会や大学などで講演した。ところが、フィンランドに滞在中の3月23日、スペイン最高裁は再度関係各国に対して亡命中の独立派幹部の欧州逮捕状を出した。そして、ベルギーへの帰途、ドイツを車で移動中だったプッチダモンは、25日に逮捕された。
しかし、4月4日、ドイツのシュレスウィヒ・ホルシュタイン州裁判所は、プッチダモンの国家反逆罪を否定し、7月12日には、スペインへの引渡しを否定した。これを受け、スペイン最高裁は、ドイツ司法当局を強く批判したが、同月18日プッチダモン他6名(ドイツ1名、ベルギー3名、スコットランド1名、スイス1名)の欧州逮捕状を撤回した。
他方、スペインでは、スペイン最高裁が3月23日(欧州逮捕状を再度出したのと同じ日)に、新たに6名の独立派幹部に国家反逆罪の罪状で出頭命令を出し、合計9名の独立派幹部が国家反逆罪でスペインの刑務所に予防的措置として収監された。だが、ベルギー、スイス、スコットランドの司法当局が国家反逆罪の認定に極めて消極的だったうえ、ドイツ司法当局が裁判の結果として国家反逆罪を否定したことで、スペイン政府に断罪されている独立派幹部は政治犯であるという独立派の主張が、国際社会から裏づけを得たともいえる状況になった。
[奥野良知 2018年9月19日]
カタルーニャでは、2018年5月17日、プッチダモンの推薦するトーラJoaquim Torra i Pla(1962― )が州政府新首相に就任した。さらに、中央政界でも、5月25日、社会労働党の党首ペドロ・サンチェスPedro Sánchez Pérez-Castejón(1972― )の提出した首相ラホイに対する不信任決議案が可決され、6月2日、サンチェスが首相に就任した。また同日、カタルーニャでは、州政府閣僚が就任しトーラ政権が発足したが、これは155条による自治権停止の解除を意味した。社会労働党はカタルーニャの自己決定権を認めておらず、したがって、独立の是非を問う住民投票を認めていないものの、自治政府首相トーラとスペイン政府首相サンチェスの会談が実現するなど、長らくとだえていた両政府による直接対話が行われるようになった。
最後に、左派新党のポデモスPodemos(党名は「われわれは可能である」という意。旧共産党系諸政党と共通会派を組んでいる)の憲法改正案に触れておく。ポデモスは、「スペインは複数のネーションからなるマルチ・ナショナルな国家」であり、カタルーニャやバスクの自己決定権を認める規定を憲法に盛り込むと主張しており、これこそが、カタルーニャが円満な形で独立しないで済む最善の方法だとしている。
[奥野良知 2018年9月19日]