翻訳|Scotland
英国本島の北部に位置し、イングランド、ウェールズ、北アイルランドと共に「大ブリテンおよび北アイルランド連合王国(英国)」を構成する。1707年にイングランドと統合するまで独立国だった。人口推定約547万人で、英国全体の約8%。面積は北海道よりやや小さい程度。2011年の議会選で独立派のスコットランド民族党(SNP)が過半数を獲得、14年の独立の是非を問う住民投票につながった。昨年5月の議会選でもSNP含む独立志向の2党が過半数を占めた。親欧州連合(EU)派が多い。(ファスレーン共同)
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イギリス(連合王国)の一地方で,グレート・ブリテン島の北部を占める地域。主都エジンバラ。ローマ時代にはケルト語で〈森林〉を意味する〈カレドニアCaledonia〉と呼ばれたが,アイルランドからのスコット人の移住にともない,11世紀には〈スコシアScotia〉の名称が与えられ,現在の地名の語源となった。北をノルウェー海,東を北海,西を大西洋とノース海峡に囲まれ,南はソルウェー湾,リデル川,チェビオット丘陵,トウィード川を結ぶ境界線によってイングランドと接している。総面積は,北方沖のオークニー諸島とシェトランド諸島,西岸沖のアウターおよびインナー・ヘブリディーズ諸島などの付属島嶼を含めて7万8762km2,人口506万(2001)。1975年に歴史的な州が廃止され,九つの地域regionと三つの島嶼部に再編成された。
スコットランドの地質は,北西部に一部先カンブリア時代の地層がある以外は古生代の岩石が卓越する。とくに北部にはカンブリア紀の変成岩を中心に,カレドニア造山運動による褶曲の結果生じたスコットランド高地(ハイランド)が横たわる。高地全体は北東~南西走向を有し,グレン・モアの断層線によって北西高地とグランピアン山脈に区分され,後者の西部にはイギリス最高峰のベン・ネビス山(1343m)が位置する。また洪積世氷期には地域的な氷河の中心となり,グレンglen(U字谷)やロッホloch(氷河湖,入江),ファースfirth(フィヨルド)と呼ばれる氷食地形が発達する。これに対し中央低地は幅約80kmの巨大な地溝帯であり,デボン紀,石炭紀の堆積岩が地向斜をなすが,一部では火山性丘陵が突出し,石炭層の露頭もみられる。さらにオルドビス紀,シルル紀の堆積岩がカレドニア造山運動による褶曲で隆起準平原化した南部高地では開析が進み,ヒースにおおわれた標高200~600mの不毛地(ムーアランド)が広がる。気候は西岸海洋性気候のため高緯度のわりには温和であり,エジンバラ(北緯56°)の年平均気温8.3℃は日本の函館(北緯42°)に相当する。降水量は比較的多く,とりわけ西部の降水日数は年250日にも達する。しかし偏西風と山地の関係で生じる地形性降雨が中心となるため,西岸の年降水量は2500mm以上になるが,雨陰にあたる東部の平野は乾燥して年700mm前後である。
自然の制約から農牧業は粗放的経営となり,ハイランドや南部高地の粗放的放牧地ではおもに牧羊が行われ,また南西部のクライド湾岸からソルウェー湾岸の低地は湿潤なため酪農地帯となっている。耕作農業は東部の乾燥した平野が中心で,マリー湾やフォース湾周辺がオート麦,大麦の畑作農業地帯を,その間のバハン低地が麦類,ジャガイモと肉牛の組合せによる混合農業地帯を形成している。水産業は古くから盛んで,北海や北大西洋でのタラ・ニシン漁が知られるが,テイ川ではサケ漁もみられる。最大の漁港アバディーンをはじめ,大規模な漁港は東海岸に集中する。鉱業に関しては,伝統ある石炭と新興の石油の採掘が重要である。スコットランド炭田と総称される中央低地の炭田は,エア,ファイフ,ロージアンの各炭田に分かれ,産出した一般炭は発電や地元産業に利用される。1960年代後半より開発された北海油田はシェトランド諸島沖の鉱区が最大であり,パイプラインによってシェトランド諸島,オークニー諸島および本土東岸の原油基地と結ばれ,またダンディー,グレーンジマスには精油所が立地する。このように石油を基礎に北東部や島嶼部の地域開発が進められてはいるが,工業の重心は依然として中央低地の大都市にあり,グラスゴーを核とするクライド川流域に鉄鋼,造船などの重工業が,政治・文化中心のエジンバラに製紙,出版業がそれぞれ発達する。これ以外のハイランドではウィスキー醸造や毛織物,南部高地ではツイード織など,伝統的工業がみられるにすぎない。
執筆者:長谷川 孝治
氷河期が終わると,はじめはたぶんアイルランドから,ついで大陸,バルト海方面から移住者が渡来した。しかし有史時代はローマ帝政期から始まった。80年にブリタニア総督アグリコラがカレドニアに侵入し,84年ごろケルト諸部族は撃破された。2世紀にはケルト人の南下を抑えるために防壁が造られたが,4世紀末までにローマ軍の圧力は消滅した。6世紀にアイルランドからスコット人が来住し,西部にダルリアダ王国を建設。563年にはコルンバがアイオナ島に修道院を造り,ケルト系キリスト教を伝えた。従来の住民は北部に住みピクト人と呼ばれていたが,ウェールズからはブリトン人が南西部に来住し,6世紀後半にはアングル人が東部ローランドに定着。このうちスコット人が843年にピクト人を統合してアルバ王国を建設し,1034年にはその流れを汲むダンカン1世が上記4部族を統合してスコットランド王国を樹立した。
ダンカンよりマクベスを経て,マルコム3世が継承したのはケルト的社会で,教会もケルト教会の方式を多分に踏襲していた。しかしイングランド出身の王妃マーガレットを通じ,マルコムの3人の子息が王位につくころからイングランド化が推進された。15世紀末までにスコットランドの封建化・一体化,西欧キリスト教世界との同一化,そしてイングランドとの対立が進行した。13世紀末から14世紀初めにかけ,封建的上長であるイングランド王との対立が独立戦争として激化。R.ブルースは1328年スコットランドの独立を獲得した。その後ダンカンの血統が絶え,1371年ロバート2世が即位してスチュアート朝を開始。フランスとの提携が強まり,ジェームズ5世(在位1513-42)は2人の王妃をフランスから迎え,その娘の女王メアリー(メアリー・スチュアート)はフランス王妃ともなった。
スチュアート王家,フランス勢力と結びついたローマ・カトリック教会に対する反抗として,1559年宗教改革戦争が始まり,J.ノックスの指導のもとにカルバン系の改革教会が樹立された(1560)。スコットランド宗教改革は親イングランド的運動でもあり,イングランド女王エリザベスの支持を受けた新教勢力とカトリック女王メアリーとの対立はメアリーの退位として終わり(1567),その後を継いだジェームズ6世は,1603年イングランド王兼摂(スコットランドとイングランドの同君連合)のためロンドンに赴くまで,貴族・牧師層を懐柔して巧みな統治を行った。チャールズ1世は父王と異なり政治目標の実現に急であり,世俗領化していた教会領の収入を旧に復し,かつスコットランド教会とイングランド教会の信仰の統一を実現しようとした。その第一歩として1637年に《祈禱書》を一片の勅令で国民に課した。国民のほとんどがこれに反対して,〈国民契約〉を作成し,国家と教会の両面における革命が勃発。41年国王が譲歩して契約派は勝利を収めたが,その勝利を強化するため,イングランドの議会派と提携して内乱(ピューリタン革命)に介入した。しかし独立派の台頭のため逆にO.クロムウェルらのスコットランド支配を引き起こした(1651-60)。短期間とはいえクロムウェルによるイングランドとの合併は,西部の商人層とアメリカ新大陸との接触をもたらし,伝統的な封建的支配層の力は弱まった。
1660年の王政復古体制はスチュアート王家による強権支配であり,契約派は徹底的に弾圧を受けた。しかしローマ・カトリック教徒のジェームズ7世(イングランド王としてはジェームズ2世)が即位して(1685),カトリック教徒に対する信仰の自由を認めると国内の情勢は急変し,長老派ばかりでなく主教派も国王に対して批判的となった。1689-90年の革命は,主としてイングランドの名誉革命の随伴現象として生じたものではあったが,スコットランド史に与えた影響は大きかった。スコットランド議会により国王はその王位を奪われ,代わって1689年ウィリアム2世(イングランド王としてはウィリアム3世)とメアリー2世の即位が承認され,〈権利章典〉に類似した〈権利要求章典〉が制定されて,議会はその独立的な地位を獲得したが,行政はイングランド政府によって大きく左右された。また1560年以来長老制と主教制の間を揺れ動いていたスコットランド教会も,議会の決定によって長老制の基礎の上に再建された。
ウィリアムはスコットランドと長老制に好意を示さず,国内ではジェームズの支持者(ジャコバイト)や主教派が活動し,90年代には凶作が続き,またスコットランド会社による中米植民地の建設(ダリエン計画)は失敗して,革命後には混乱と不穏の時期が続いた。1700年にアンの王子が死亡してスチュアート朝の王統の消滅が明らかになると,政治的・外交的混乱はさらに高まった。ハノーファー家を推すイングランドに対し,スコットランドは別個の後継者の支持をほのめかし,イングランドはスコットランド人を外人とみなす法を作成して,これに対抗した。このような対立の解決策として両王国の連合案が画策され,1707年連合条約が成立して,スコットランド議会と枢密院は消滅し,これ以降のスコットランドはグレート・ブリテン連合王国の一部として扱われることとなった。
人口は1801年の162万から1995年の514万に増えたが,イングランド,ウェールズの人口に対する比は,その間18%から10%弱に減少した。国内の人口分布にも大きな変動があり,1801年にはハイランド・東北部がスコットランド全人口の半ば近くを占めていたが,今日では激減し,グラスゴー地域に人口の約50%が集中している。
中世末以来のイングランド化の現象は言語の面で著しく,現在はイングランド語(英語)もしくはスコットランド方言化したイングランド語が用いられている。ゲーリック語の使用は減少し(1971年の使用者は8万8753人,うちゲーリック語のみ338人),ハイランド・西部島嶼地帯の一部に限られている。しかし,ナショナリズムの復興とからみ,文化運動としてのゲーリック語の尊重がみられる。
1690年にスコットランド教会は国教会と認められ,1712年には主教派もその礼拝を許された。18世紀半ばから19世紀半ばにかけ,教会と国家の関係をめぐりスコットランド教会が分裂を繰り返し,長老派の諸派が出現したが,その後統合が行われてきた。1996年現在スコットランド教会員は68万人で,そのほかに他の長老派やプロテスタント諸派,ローマ・カトリック教会,ユダヤ教などの信徒がいる。キリスト教の影響力は減少し,スコットランド教会員数は,成人人口の約4分の1にすぎないが,スコットランド教会は依然として国教会であり,イングランドにおけるイングランド教会よりも社会的に重要な役割を果たしている。
中世以来,法体系はフランスの影響を受けて大陸法の伝統を継ぎ,その点イングランドとは異なった発展を示してきた。1707年のイングランドとの連合条約において,スコットランド法の維持は保証され,18世紀にはスコットランド法の体系化がなされた。しかしイングランド法との同化も進行し,刑法や私法の面では依然として独自の特徴を保持しているものの,商法,税法,社会福祉法などにおいてはほぼ同化が完了している。スコットランド内における最高法廷は高等刑事裁判所と高等民事裁判所である。
1707年の合同以来,文化面でもイングランド化がすすんでいるが,その反面,対抗意識が強い。スコットランド文化を代表するものはタータン,バッグパイプ音楽,民族舞踊であろう。タータンはハイランドの住人のキルトなどの服装に用いられ,氏族clanによってその柄が異なっていた。1745年のジャコバイトの反乱後には,スコットランドの民族意識を高揚するものとして一時禁止されたこともある。民族楽器としてはバッグパイプのほかにハープとフィドルが代表的であり,民族舞踊としてはジーグとリールが古くから盛んである。これらの音楽,舞踊は各地で行われているが,かつてのようなハイランドや氏族などとの関係は希薄になっている。民族文化の維持・復活には18~19世紀のロマン主義が寄与したが,なかでもR.バーンズはスコットランドの国民詩人として知られている。階級意識と郷土意識とが結びついた文学運動や,ケルト文化尊重の動きもある。またイングランド化,商業化に反対する政治的急進主義や,都市の共同体意識が演劇活動となって現れている。
執筆者:飯島 啓二
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イギリスを構成する連合王国の一つ。グレート・ブリテン島の北部を占める。面積7万8133平方キロメートル、人口506万2011(2001)。首都エジンバラと経済的中心グラスゴーが二大都市。北と西は大西洋、東は北海に臨み、南はトゥウィード川とチェビオット丘陵を境界としてイングランドと隣接する。地形的にはハイランド、グランピアン山脈、中央低地、サザン・アップランズに分かれる。氷食地形が発達し、氷河湖が多く、西岸にはフィヨルド海岸が多くみられる。北部にシェトランド諸島、オークニー諸島、ヘブリディーズ諸島がある。
気候は、暖かい北大西洋海流の影響を受けるため西岸海洋性気候となる。北西部のフォート・ウィリアムの月平均気温は最低の1月が4℃、最高の6月が15℃である。内陸部の山地は偏西風にさらされ、主要な低気圧の経路となっているため、年間を通じて低温多湿である。ベン・ネビス山の年降水量は4570ミリメートルにも達する。そのため土壌の溶脱、酸性化が著しく、作物の生育期間が限られるので、オート麦、大麦、ジャガイモなどの作物が卓越する。また、西岸のグリーノックでは年降水量1573ミリメートルであるが、東岸のエジンバラでは695ミリメートルと、東へ向かうほど降水量は減少し、日照時間は逆に多くなる傾向がある。
幅80キロメートルの地溝帯をなす中央低地は、肥沃(ひよく)な土壌と、ファイフ、ミッドロージアン、エアシャー(各旧県)などの炭田、さらにクライド湾のような天然の良港に恵まれ、早くから交通の要衝として栄え、大都市が発達し、造船、機械、化学、製紙などの工業が集積してきた。セントラル・クライドサイド・コナベーション(グラスゴーを中心とする連接都市域)は、面積ではスコットランドの約1%を占めるにすぎないが、35%の人口をもつ。ハイランドはスコッチ・ウイスキーの特産で有名である。また北西高地と島嶼(とうしょ)部は人口希薄地帯で、人口流出が続いている。放牧地は共有であるが、可耕地は分割されてクロフターとよばれる小作人や小農が自給的農業を営む。海岸地帯ではこのようなクロフト制度に基づいた農業と、漁業によって生計がたてられてきた。ローモンド湖北西にある多雨地域(年降水量2670ミリメートル)ではグレン・シーラ開発計画に基づき、ファイン湾上流にあるクラッチャン発電所が1955年に完成し、アルミニウム製錬工業が立地するようになった。最北端の町サーソーから西へ12キロメートルのダウンレーには原子力発電所がある。また、フォート・ウィリアム近郊のコーパッチにはパルプ・製紙工場が誘致された。このように、伝統的なクロフト制度農業、海藻加工業、ウイスキー醸造業のほかに、最近では水力、原子力による計画的な発電所開発計画、木材、観光資源の開発によって北部のハイランド地域は大きく発展しようとしている。北東低地の沿岸地帯は、アバディーン、ピーターヘッド、フレーザーバーグなどの主要港湾都市が発達し、北海、大西洋海域の漁業基地がある。アバディーンのビクトリア・ドックは北海海底油田の採掘の後方基地としてにぎわいをみせている。ここではツイード、リンネルなどの繊維産業、造船、食品加工業に加えて、北海油田開発に関連する産業が立地し、構造的不況に悩むイギリス経済に刺激を与えている。
[米田 巌]
考古学的発掘の結果、中石器および新石器時代にスコットランドには人間が住んでいたことがわかっている。彼らはアイルランドやヨーロッパ本土から移住してきたのであろうが、詳しいことは不明である。有史時代に入ると、ローマ帝政期に、アグリコラのもとにローマ軍が侵入し(後80)、北東部スコットランドでケルト系諸部族を撃破したことが知られている。2世紀なかば、ローマ軍は南部からフォース湾に至る地域を占拠し、アントニヌス防壁を築いた。これより遅れてスコットランド各地に、のちにスコットランド国民を形成する人々が到来した。6世紀にアイルランドからきたスコット人は、アーガイル(スコットランド西部の旧県)にダルリアダ王国を建設し、その一人である聖コランバは、563年、インナー・ヘブリディーズ諸島のアイオナ島(マル島南西)に修道院を建ててケルト系キリスト教を伝えた。古い時代の移住民の子孫であるピクト人は北部に居住し、ウェールズ方面からはブリトン人がきて南西部に住み着いた。6世紀後半にはアングル人が東部ローランドに定住した。このうちまず843年、スコット人とピクト人の融合がなってアルバ王国がつくられ、その血統を引くダンカン1世が1034年に即位して単一のスコットランド王国を樹立した。
初代のスコットランド王ダンカンは、シェークスピア劇に登場する人物と同名のマクベスに殺されたが、マクベスはダンカンの息子のマルコム3世に打倒された。このケルト的なスコットランド王国に大きな変化をもたらしたのは、マルコムの王妃となったイングランド出身のマーガレットである。マルコム3世の死(1093)からジェームズ4世の即位(1488)までの時期には封建化が進行し、西欧キリスト教世界との同化が行われた。またイングランドとの不和が激しくなり、13世紀末から14世紀初めにかけて、封建的上長を主張するイングランド王家との間に、いわゆる独立戦争が遂行された。ところで1371年、デビッド2世が後継ぎなしに死亡したため、王位は王の甥(おい)であるスチュアート家のロバート2世に移った。イングランドとの不和の裏返しであるフランスとの提携は、スチュアート朝期にはいっそう強まり、ジェームズ5世(在位1513~42)はフランス出身の女性と二度にわたり結婚し、女王メアリー・スチュアート(在位1542~67)はフランス皇太子と結婚するに至った。
しかしローマ・カトリック教会の堕落、およびこれと結び付くスチュアート王家=フランス勢力に対する反感から、16世紀なかばには親イングランド的な宗教改革運動が展開された。ジョン・ノックスはイングランドとジュネーブに亡命したのち、1560年、カルバンの教義に基づくスコットランド教会を樹立した。カトリック教徒であった女王メアリーは、改革教会および貴族との闘争に敗れて退位し、イングランドのエリザベスに庇護(ひご)を求めた。メアリーの子のジェームズ6世は、1603年、このエリザベスの死没後イングランド王を兼ね、イングランドの富と力とを背景に、教会と貴族とを懐柔し、スコットランドに対する強力支配を築き上げて、1625年平穏のうちに世を去った。
その後を継いだチャールズ1世(在位1625~49)の統治は、父の治世とは対比的な様相を示した。彼は王室と教会のために、世俗領化した教会領の収入の回復を企てて貴族の反感を買った。さらにスコットランド教会とイングランド教会との信仰の統一化を目ざして、祈祷書(きとうしょ)を強制的に公布した。貴族層と牧師とは「国民契約」を作成して国王に反抗し、これが教会と国家の両面における革命をもたらした。1641年、王の譲歩により契約派の目標はほぼ達成されたが、事態の恒久化のためにはイングランドの議会派との提携を必要とし、44年には国境を越えて北から王党派を制圧した。しかし議会派の勝利はイングランドの長老主義化を志した契約派の希望を打ちくじき、50年代には議会派によるスコットランドの軍事的支配を引き起こすに至った。
1660年の王政復古により、スチュアート朝の強権支配が復活して長老派は激しい迫害を受けたが、名誉革命(1688~89)に伴う1689~90年の革命は、ジェームズ7世の廃位とウィリアム2世、メアリー2世の即位をもたらした。イングランドの「権利章典」に類似した「権利要求章典」が議会によって採択され、同時に長老主義教会体制が恒久的な安定をみるに至った。革命後スコットランド議会は以前よりも独立的な地歩を獲得したが、行政者たちはイングランド政府の指名によるところが多かった。ついで1700年にアンの王子が死亡すると、予想されるスチュアート朝の消滅に伴う王位継承問題が、イングランドとの間に政治的外交的な緊張を生み出した。その解決策として、1707年に連合条約が成立し、スコットランドはグレート・ブリテン王国のうちに統合されることとなった。この連合条約によってスコットランド独自の議会は消滅していたが、1997年の住民投票によってスコットランド議会の復活が決定。99年5月、約300年ぶりの議会選挙が行われ、6月に行政府が発足した。
[飯島啓二]
『難波利夫著『オールド・ラング スコットランド』(1979・日本経済評論社)』▽『村上文昭著『スコットランドあれこれ』(1979・中央書院)』▽『藪内芳彦著『島――その社会地理』(1972・朝倉書店)』▽『David Turnock ed.Scotland's Highlands and Islands (1974, Oxford University Press)』▽『飯島啓二著「スコットランド・ウェールズの抱える問題」(青山吉信編『実像のイギリス』所収・1984・有斐閣)』▽『D. Daiches ed.A Companion to Scottish Culture (1981, Edward Arnold, London)』
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ローマ時代の呼称はカレドニア。古くはケルト系のピクト人が居住していたが,6世紀にアイルランドから移住したスコット人がしだいに支配地域を広げ,11世紀に統一王国を形成。以後封建的な上級君主権を主張するイングランドとの抗争が続いたが,14世紀にロバート・ブルースのもとで独立を達成。ステュアート朝ではフランスの影響が強まり,イングランドとの対立が厳しくなる。1603年ジェームズ6世のイングランド王位継承によって,両国は同君連合の関係になった。ピューリタン革命においては議会側を支持したが,クロムウェルによる侵略を受けた。1707年両国は合同し,グレート・ブリテン王国となった。この18世紀にスコットランド啓蒙と呼ばれる文化運動が展開。産業革命によって西南部のグラスゴーを中心に工業化が進展をみせ,イギリス帝国発展の原動力を提供した。第二次世界大戦後,北海油田の開発を契機に自治を要求する声が高まり,1997年の住民投票を背景にして,99年大幅な自治権を有する独自の議会の設置が認められた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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… その他,初期ロマン派交響曲では,メンデルスゾーン(初期の弦合奏主体の13曲と,1824‐42の5曲)とシューマン(未完とスケッチのほか,1841‐51の4曲)が重要である。メンデルスゾーンは第3番《スコットランド》(1842),第4番《イタリア》(1833)をはじめ,標題音楽的な雰囲気と色彩豊かな管弦楽法を特徴とする。シューマンは第1番《春》(1841)や第3番《ライン》(1850),第4番(1841,改作1851)などで,ピアノ的な発想と語法を背景として,文学的契機を暗示しながらも純音楽的な動機による統一的造形を打ち出している。…
…ノルウェー海,北海,イギリス海峡によってヨーロッパ大陸から隔てられ,イギリス諸島の大半を占める。主島であるグレート・ブリテン島は面積約23万km2で日本の本州とほぼ等しく,行政上はイングランド,ウェールズ,スコットランドの3地域に区分されている。このほかアイルランド島北東部の北アイルランドやアイリッシュ海のマン島,イギリス海峡のチャンネル諸島を含む。…
…しかしローマ時代に入ると,最も遅くこの島へ移住したケルト系ブリトン人にちなむ〈ブリタニア〉の名称が定着し,今日のブリテンとなった。正式にグレート・ブリテンの名称が採用されるのは,1707年にイングランドとスコットランドが合同して連合王国を形成したときであり,フランスのブルターニュ地方をさすリトル・ブリテンと区別するため命名された。島は行政上,北部のスコットランド,南西部のウェールズ,中部・南部のイングランドに区分される。…
※「スコットランド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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