国民党(読み)コクミントウ

共同通信ニュース用語解説 「国民党」の解説

国民党

1919年結成。正式名は中国国民党。49年に共産党との内戦に敗れて中国大陸から台湾に敗走。〓(草カンムリに将の旧字体)介石しょう・かいせきの長男、〓(草カンムリに将の旧字体)経国しょう・けいこくの後任となった故李登輝り・とうき氏が民主化を推進。2000年の総統選で民主進歩党(民進党)に敗れ野党に。08年総統選で馬英九ば・えいきゅう氏が当選して政権奪還したが、対中関係改善を急速に推し進めたことに反発が高まり、16年総統選で国民党候補は民進党の蔡英文さい・えいぶん氏に敗れた。20年総統選でも親中姿勢を鮮明にした韓国瑜かん・こくゆ氏が蔡氏に大敗。中国の習近平しゅう・きんぺい指導部が台湾統一圧力を強める中、党内の世代間対立もあり、明確な対中策を打ち出せていない。(台北共同)

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精選版 日本国語大辞典 「国民党」の意味・読み・例文・類語

こくみん‐とう‥タウ【国民党】

  1. [ 一 ] 立憲国民党の略称。
  2. [ 二 ] 中国国民党の略称。

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改訂新版 世界大百科事典 「国民党」の意味・わかりやすい解説

国民党 (こくみんとう)

明治・大正期の立憲国民党と第2次大戦後の国民党がある。

(1)明治末期から大正時代にかけての政党。正式には立憲国民党。比較的に都市部選出議員が多く,都市中間層を基盤に野党色が強かった。1910年3月13日憲政本党,又新(ゆうしん)会,無名会と旧戊申俱楽部の一部が合同して結成。責任内閣の樹立,適正な軍備,官僚主義打破,地方自治の拡張,税制整理,農商工業の奨励・発達などを掲げ,いちおう民党主義を標榜した。所属議員は92名,常務委員には犬養毅,大石正巳,河野広中を選んだ。翌11年の第27議会では南北朝正閏問題で第2次桂太郎内閣を追及し,続く第2次西園寺公望内閣に対しても行財政整理,租税軽減を要求,辛亥革命に直面しての対中国政策の動揺を批判するなど,野党的立場を貫いた。12年12月からの第1次護憲運動には犬養以下先頭にたって活躍したが,翌年1月桂首相の新党(立憲同志会)結成に大石正巳ら40余人が参加して党勢は大きく後退した。山本権兵衛内閣に対しては選挙権に関する納税資格の撤廃問題やシーメンス事件で責任を追及,続く大隈重信内閣に対して野党に甘んじて,二個師団増設問題や対華二十一ヵ条要求を取り上げて政府を批判した。17年寺内正毅内閣が挙国一致を構想して臨時外交調査会を設置すると犬養は政友会の原敬とともに委員に就任,与党的立場をとった。この年彼は党総理に就任,やがて普選運動が高まると,普選実現へと党の方針を転換,20年には憲政会とともに普選法案を上程したが解散となった。この総選挙では前回の35名から29名に減少,以後も議会ごとに普選法案を提出するが,党の退勢は挽回できず,憲政会内の急進派や無所属俱楽部と接近し,新しく革新俱楽部を結成することを前提に,22年9月解党した。
執筆者:(2)第2次大戦後の政党。戦後最初の総選挙で一人一党,地方政党,中立の立場で当選した議員たちによって院内交渉団体新政会が構成されていた。新政会と協同民主党との最初の合流の試みは党名問題で不調に終わり,新政会の笹森順造,岡田勢一,早川崇ら34名の議員は1946年9月25日,国民党を結党した。47年3月8日,国民党と無所属クラブの協同民主党への合流が成立し,国民協同党が発足,国民党は同党右派となった。
執筆者:


国民党 (こくみんとう)

南アフリカ共和国ボーア人系政党で野党第1党。1910年の南アフリカ連邦成立後,親英的なL.ボータの南アフリカ党に対抗して,ボーア人の伝統を固守するヘルツォーク(司法相)により14年1月結成された。その基盤はボーア人地主とボーア戦争により都市に流出した白人貧窮層にあった。24年の総選挙で白人労働者の保護をスローガンに労働党と連合して圧勝し,新首相ヘルツォークは一連の〈文明化労働政策〉を実施した。34年南アフリカ党と合して新たに連合党が結成されたが,これに反対する国民党のマランDaniel F.Malan(1874-1959)は純正国民党を結成した。第2次大戦後国の内外で起こった民族運動の高揚に対し,マランは白人の危機を訴え,アパルトヘイト政策を掲げて48年総選挙で連合党に勝ち,以後国民党はストレイダム,フルウールト,フォルスター,P.ボータ政権と,一貫して人種差別政策を強化してきた。しかしボータ政権がインド人とカラードを取り込む人種別三院制議会案を提唱すると,右派は国民党を脱党し保守党(トロールニヒト党首)を結成した。94年9月大統領に就任したデ・クラークFrederik Willem de Klerk(1936- )は,これまでの国民党の政策を転換し,南アフリカの将来を黒人との話合いで決めていく対話路線を打ち出した。そして1990年2月ANC,PAC,南ア共産党を合法化し,マンデラを釈放した。さらにANCとの予備交渉を経て91年12月と92年5月に全人種代表からなる民主南アフリカ会議,93年4月と7月に多党交渉フォーラムを開催し,暫定政府と暫定憲法を制定した。94年4月の南ア史上初の制憲議会選挙ではANCに次ぎ第二党となり,暫定憲法の規定により連立政府を樹立,デ・クラークは第二副大統領となった。しかし,96年5月に新憲法が採択され,次回選挙以降の連立政権の可能性がなくなると,国民党は6月政権を離脱し,野党となった。またデ・クラークは97年8月政界から引退した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「国民党」の意味・わかりやすい解説

国民党[南アフリカ共和国]
こくみんとう[みなみアフリカきょうわこく]
National Party

アパルトヘイト人種隔離)政策を展開した南アフリカ共和国の政党。略称 NP。イギリスとの結びつきを基盤とするイギリス系白人(ブリトン)に対抗するため,1912年オランダ系白人(ボーア人)が結成。ダニエル・F.マランが党首を務めていた 1948年の選挙で初勝利を収め,以後アパルトヘイト政策を強めて 1994年まで政権の座を独占した。1960年国民党党首のヘンドリク・F.フルウールト首相はイギリスとの絆を切るため共和国移行の国民投票を実施して勝ち,1961年イギリス連邦を脱退した。1978年就任した P.W.ボータ首相は,1984年多数派の黒人を除き,白人,カラード,インド系人の人種別三院制を確立,また首相職を廃止して大統領に執行機能を与え,みずから大統領に就任した。1989年ボータの後を継いだ F.W.デクラークは大統領就任以来,改革を推進。1990年党員資格を全人種に開放したが,実際には人種別に政党が組織されていた。1991年全アパルトヘイト法を撤廃した。1994年初の全人種参加選挙が実施され,アフリカ民族会議 ANCが圧勝,ネルソンマンデラ大統領主導の大連立政権に参加するが,地方分権などをめぐり対立し,1996年連立政権から離脱した。1997年マルチナス・ファン・スカルクウェイクが党首に就任した。1998年新国民党と改称し再起をはかったが,翌 1999年の総選挙では惨敗した。その後参加した野党民主同盟からも 2001年に離脱,2005年解党した。

国民党[ホンジュラス]
こくみんとう[ホンジュラス]
Partido Nacional

ホンジュラス二大政党の1つで,右派保守政党。 1923年国民統合を求める政治団体として設立。農村部の土地所有者をおもな支持基盤とする。民政移管後の 81年,さらに 85年の大統領選挙では自由党に敗れ下野。しかし,89年の大統領選挙では再度出馬したラファエル・レオナルド・カジェハス候補が与党自由党のカルロス・フロレス・ファクセを破り当選,国会選挙でも過半数議席を得て勝利した。カジェハス政権は雇用創出や国営企業の民営化に取組むが国民の支持が伸びず,93年 11月の大統領選挙ではホセ・オスワルド・ラモス・ソト元最高裁長官を擁立するが自由党に敗北して政権を奪われた。続く 97年大統領選挙でもアルバ・ノラ・グネラ前テグシガルパ市長が出馬するが敗北した。党内にはマルチネス・ロサノ派とラモス・ソト派などの派閥が競合し合っている。

国民党[スペイン]
こくみんとう[スペイン]
Partido Popular

略称 PP。スペインの政党。民主中道連合 UCD (→民主社会中道党 ) に対抗する右派勢力が 1976年に国民同盟 APとして結成した。しかし,77年の総選挙で大敗,右派勢力を結集し民主連立を組んで戦った 79年の総選挙でも敗れた。 82年の総選挙では旧 UCD系の国民民主党 PDPと連合を組み第2党へ躍進した。 86年6月の総選挙でも PDP主導の人民連立に参加して戦ったが議席が伸びず,88年1月の党大会で穏健保守・中道路線に方針を変更,現党名に改称した。また組織拡大のため自由党を吸収したほか地域諸政党と協力関係を結んだ。その後 93年総選挙では第2党につけ,96年3月の総選挙では第1党となり J.M.アスナールが首相に就任し連立内閣を樹立した。

国民党[ウルグアイ]
こくみんとう[ウルグアイ]
Partido Nacional

通称ブランコ党。ウルグアイの政党。コロラド党と並び 19世紀前半に結成された伝統的な政党。 1958年までの 93年間コロラド党に政権を許していたが,同年および 62年の議会選挙に勝利し,政権を保持するのに成功。しかし,67年以降 89年 11月の総選挙まで大統領選挙および議会選挙ではコロラド党に敗北し続けた。 89年 11月の大統領選挙ではルイス・ラカジェがコロラド党の候補を破り,あわせて行われた議会選挙でも第1党につけた。 94年 11月の大統領選挙にはアルベルト・ボロンテ候補を擁立するがコロラド党に敗北。議会選挙にも敗れたが,コロラド党のサンギネティ政権には党内の全派閥が連立参加した。

国民党[バングラデシュ]
こくみんとう[バングラデシュ]
Jatiya Party

略称 JP。バングラデシュの政党。 1983年に当時のエルシャド大統領によって結成された人民党を核として,政府支持派の4党が 86年に結成。民族主義,イスラム主義を掲げエルシャド軍政を支える連立与党の役割を果した。 86年5月の総選挙ではかろうじて過半数を獲得するにとどまった。 88年3月の総選挙では野党側がボイコットしたため圧勝したが,90年の反政府運動によりエルシャド大統領は退陣した。その後はアワミ連盟バングラデシュ民族主義者党政権交代が繰返され,国民党は第3党の地位にとどまっている。

国民党[スイス]
こくみんとう[スイス]
Schweizerische Volkspartei;Union Démocratique du Centre;Unione Democratica di Centro

スイスの政党。 1971年農民・職人・市民の党の離党組が民主党とともに結成。中道左派路線を唱え,農業政策や社会政策に力点をおき,強力な国防の維持,国内農業の保護,小規模産業の育成に力を注いでいる。連邦下院での各選挙における獲得議席数は 25前後に終始しているが,結党以来スイス社会民主党急進民主党キリスト教民主党との連立政権をになっている。

国民党[フィリピン]
こくみんとう[フィリピン]
Nacionalista Party

略称 NP。フィリピンの政党。 1907年に結成されたフィリピン最古の政党を母体に,マルコス時代まで歴代の政権を支えてきた。 65年の大統領選挙に同党から立候補したマルコスが勝利を収めたが,その後 78年2月にマルコスは新支持政党として新社会運動を結成したのに伴い解体。アキノ政権下での 87年総選挙を前に,反アキノ,反共産主義の立場を掲げ J.P.エンリレ前国防相が再組織化したが党勢は伸びず,低迷状態が続いている。

国民党[オーストラリア]
こくみんとう[オーストラリア]

「オーストラリア国民党」のページをご覧ください。


国民党[ニュージーランド]
こくみんとう[ニュージーランド]

「ニュージーランド国民党」のページをご覧ください。

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百科事典マイペディア 「国民党」の意味・わかりやすい解説

国民党【こくみんとう】

大正時代の政党。1910年憲政本党,無名会,又新会の〈非政友三派〉を中心に結成。大石正巳らの改革派と犬養毅らの非改革派が対立し,1913年桂太郎が新党を組織すると改革派はそれに走り,党は分裂。1922年解党して革新倶楽部を結成。
→関連項目犬養毅憲政本党護憲運動同志会中江兆民福本日南

国民党【こくみんとう】

中国国民党

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「国民党」の解説

国民党(こくみんとう)

①〔南アフリカ〕National Party of South Africa南アフリカ共和国ブール人系政党。1914年ヘルツォークによって結成,反英・反黒人の現地白人主義を唱えた。48年アパルトヘイトを掲げて勝利して以来94年まで単独与党。98年新国民党と改称。

②〔インドネシア〕インドネシア国民党

③〔中国〕中国国民党

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世界大百科事典(旧版)内の国民党の言及

【中国同盟会】より

…この分裂状況を克服させたのが,武昌蜂起とそれにつづく革命の勝利であった。12年3月,同盟会は首都南京で公開政党となり,のち8月には他の四つの小党を吸収して国民党となった。国民党の理事長には孫文がえらばれたが,実際に運営の衝にあたったのは宋教仁である。…

【犬養毅】より

…この間,日本に亡命した金玉均,孫文らを庇護し,中国革命同盟会結成を援助するなど,大陸問題への強い関心ぶりを示した。1910年立憲国民党を結成し,大正政変に際しては桂太郎の新党に党員の過半を奪われたが,政友会の尾崎行雄らと提携して護憲運動の先頭に立ち,尾崎とともに〈憲政の神様〉と併称された。しかし第1次山本権兵衛内閣には好意をよせ,シーメンス事件にもあいまいな態度をとり,17年寺内内閣の臨時外交調査会に参加して人気を落とした。…

※「国民党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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