改訂新版 世界大百科事典 「カラハーン朝」の意味・わかりやすい解説
カラ・ハーン朝 (カラハーンちょう)
Qara Khān
中央アジアを支配したトルコ系イスラム王朝。840-1212年。イリグ(イレク)・ハーンIlig Khān朝ともいう。王朝の起源についてはまだ定説がない。O.プリツァクの説によると,840年ウイグル王国が崩壊すると,その支配下にあったカルルク部族連合体が独立,チュー河畔のベラサグンを本拠に新王朝を開いたとされる。サトゥク・ボグラ・ハーンの時代に初めてイスラムを受容し,続くムーサーの時代に当たる960年には20万帳に上る遊牧トルコ人がイスラム化したという。以後の諸ハーンは東トルキスタンのホータン,クチャなどの仏教圏に聖戦(ジハード)を敢行するかたわら,999年にはブハラを占領してサーマーン朝を滅ぼし,マー・ワラー・アンナフルのトルコ化を促進した。しかし内部抗争のため,1041・42年にはシル・ダリヤおよびホーカンドを境に東西に分裂した。西カラ・ハーン朝は89年セルジューク朝,1141年カラ・キタイ朝の宗主権下に入り,1212年ホラズム・シャー朝によって滅ぼされた。一方,東カラ・ハーン朝の首都カシュガルでは,最古のトルコ・イスラム文学作品《クタドグ・ビリク》が著される(1069・70)など,新たなトルコ・イスラム文化の萌芽がみられたが,1089年にはセルジューク朝,1132年にはカラ・キタイ朝の支配下に入り,1211年ナイマン部のクチュルクによって滅ぼされた。
執筆者:間野 英二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報