カール[12世]
Karl ⅩⅡ
生没年:1682-1718
スウェーデン王。在位1697-1718年。15歳で親政を執り,1700年にザクセン,ポーランド,デンマーク,ロシアの攻撃を受けたため(北方戦争),まずデンマークを制圧した。次いでロシアをナルバで破り,翌年ポーランドに進軍し,06年に講和を結んだ。この間ロシアがバルト海沿岸のスウェーデン領を征服したので,再度ロシアに進攻したが,09年ポルタワで大敗してトルコに逃れ,トルコとともにロシア進撃を企てたが失敗,15年に帰国した。国王不在の間,再びデンマークをはじめバルト海沿岸諸国が宣戦したため,ノルウェーに進攻したが陣没した。軍事的天才として文学作品などを通して後世の人からも称賛されたが,治世の大半を戦場で過ごして内政に関与しなかったため貴族勢力を増大させ,またバルト帝国を崩壊させた責任は免れない。没後,貴族による政党政治が国政の実権を掌握し,同国史上一大転換期となったが,その要因を作ったことになる。
執筆者:清原 瑞彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
カール12世(カールじゅうにせい)
Karl ⅩⅡ
1682~1718(在位1697~1718)
スウェーデン王。15歳で即位後,北方戦争が勃発,1700年デンマークに侵入,同年ナルヴァの戦いでロシア軍を破り,さらにポーランドを蹂躙(じゅうりん)した。しかし09年ポルタヴァの戦いでロシアに大敗,トルコに逃れ,15年帰国後も抗戦を継続,ノルウェーに進攻中戦死した。彼の死とともにスウェーデンのバルト海支配と強国としての地位は失われた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のカール12世の言及
【オンブズマン】より
…現在のような制度の発祥国はスウェーデンである。原型は,北方戦争に敗れてトルコに逃れた国王カール12世がその5年間の不在中に官吏の職務遂行を監督させるため選任した代理人で,1809年の〈統治憲章〉で新たに〈議会オンブズマン〉が設置された。その後,デンマーク(1953),ノルウェー(1962),ニュージーランド(1962),イギリス(1967),フランス(1973),オーストリア(1977)というように,行政機能の量的・質的拡大を背景に各国に普及した。…
【スウェーデン】より
…その後の王は財政再建を試みて諸改革を行ったが,貴族との対立を深めた。1697年,[カール12世](在位1697‐1718)が17歳で親政を開始したが,国際的緊張が高まる中で,ロシア,ポーランド,デンマークはスウェーデンの拡大を封じるため同盟を結んだ。これに対抗して王はオランダ,イギリスと同盟して,1700年にデンマークを攻撃して屈服させ,続いてロシアに進攻し,ピョートル大帝軍をナルバで破った([北方戦争]開幕)が,09年のポルタバPoltava(現,ソ連邦ウクライナ)の戦で大敗を喫した。…
【フィンランド】より
…次いでヨハン3世Johan III(在位1568‐92)は1581年フィンランドを大公国に格上げしてロシアに対抗しようとした。またカール9世Karl IX(在位1599‐1611)は重税のために蜂起したフィンランドの農民一揆〈棍棒戦争〉を利用してフィンランド貴族を一掃し(1599),ここに王権を確立した。 次に勇王[グスタブ2世]のもとで強力となったスウェーデンは,武力によってロシアを封じ込め,1617年ストルボバの和議により東カレリアとイングリアを手に入れ,エストニアを合して,さらにポーランドを押さえ,リボニアまで手中に収めた。…
【北方戦争】より
…とくにロシアのピョートル1世は,バルト海への出口を求めて,1700年スウェーデンに宣戦したが,11月にはフィンランド湾の要塞[ナルバ]で敗北を喫した(ナルバの会戦)。スウェーデンのカール12世は,その後ポーランド,ザクセンへ侵攻し,ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世の退位とスタニスワフ・レシチンスキの即位を要求し,これを認めさせた。07年8月,スウェーデン軍はロシアへ向かった。…
※「カール12世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」