日本大百科全書(ニッポニカ) 「ザクセン」の意味・わかりやすい解説
ザクセン
ざくせん
Sachsen
ドイツの歴史的地域名。ラテン語名サクソニアSaxonia、英語名サクソニーSaxony。その範囲は時代によって変遷しているが、1180年以前は、ドイツ北部のライン川とエルベ川の間、ザクセン人の居住地域をさし、現在のドイツのニーダーザクセン州にその名が残る。
1423年以後はエルベ川の上流、旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)南東部の地域をさし、ドレスデン、ライプツィヒ、カール・マルクス・シュタットの3県の範囲にほぼ相当した。この地域は、1947年から52年まで東ドイツの一州をなしていた。当時の面積は1万6993平方キロメートル、人口約555万8000であった。なお、1990年のドイツ統一によって、前記3県の範囲をもって新たにザクセン州が設けられた。州都はドレスデンである。今日でも石炭、鉄などの地下資源に恵まれており、ドイツの重要な工業地帯となっている。ほかにケムニッツ、ライプツィヒなどの都市がある。
[中村賢二郎]
歴史
ドイツ北部には古くより西ゲルマンのザクセン人が居住し、8世紀末カール大帝に征服されてフランク王国の一部となり、キリスト教化した。9世紀後半に強大なザクセン公国が形成されたが、1180年ハインリヒ獅子(しし)公の失脚によって瓦解(がかい)、その所領の一部とザクセン公位を継承したアスカニア家(1356年選帝侯位を取得)も1423年断絶し、ザクセンの範囲は縮小して、マイセン辺境伯のウェッティン家がその所領と選帝侯位を得た。以後このウェッティン家の支配地域であるエルベ川上流の地がザクセンとよばれることになる。ウェッティン家は1485年エルンスト系とアルブレヒト系に分かれ、エルンスト系が選帝侯位を相続し、宗教改革時代にはルターを庇護(ひご)したフリードリヒ賢公(3世)を出して、新教派諸侯のリーダーとなったが、シュマルカルデン戦争に敗れて選帝侯位と所領の一部はアルブレヒト系に移り、以後アルブレヒト系がザクセンの中心的存在となった。フリードリヒ・アウグスト1世(在位1694~1733)と同2世(在位1733~63)の時代に絶対主義的統治機構が整い、学芸が栄え、繊維工業を中心として産業も発展し、ザクセン選帝侯はポーランド王位を兼ねた。当時の首都ドレスデンがバロック風の華麗な都市となったのもこの時代である。しかしポーランド王位を兼ねたことから北方戦争(1700~21)に巻き込まれ、また七年戦争(1756~63)でオーストリア側について大打撃を被った。1806年にはナポレオンにくみしてライン同盟に加入し、ナポレオンから王国を名のることを許されたが、ウィーン会議(1814~15)でその領土のなかば以上をプロイセンに割譲させられた。フランスの七月革命(1830)の影響のもとに暴動が起こり、1831年憲法を発布したが、48年ドイツに起こった三月革命以後は反動的政治に傾いた。プロイセン・オーストリア戦争ではオーストリア側にたって敗れ、1866年北ドイツ連邦に加盟、以後ドイツ帝国、ワイマール共和国へと引き継がれた。第一次世界大戦後の1919年王制が廃止され、ナチス支配下の33年ドイツ(第三帝国)の一州となった。第二次大戦後はドイツ民主共和国に属して一州を構成した。
[中村賢二郎]