ザイスインクワルト(その他表記)Arthur Seyss-Inquart

改訂新版 世界大百科事典 「ザイスインクワルト」の意味・わかりやすい解説

ザイス・インクワルト
Arthur Seyss-Inquart
生没年:1892-1946

オーストリアの政治家。モラビアに生まれる。ウィーン弁護士を営むかたわらナチス運動に接近。シュシュニク内閣の内相,次いで首相を務め,ナチス・ドイツによるオーストリア併合を成功させた。1939年から45年までヒトラー政権の無任所相。40年5月からドイツ降伏までオランダ占領区行政長官として独裁権をふるう。ニュルンベルク裁判で,オランダ人強制移送,ユダヤ人迫害等の責を問われ,戦犯として処刑された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ザイスインクワルト」の意味・わかりやすい解説

ザイス=インクワルト
Seyss-Inquart, Arthur

[生]1892.7.22. シュタンネルン
[没]1946.10.16. ニュルンベルク
オーストリアの政治家。ウィーン大学卒業後,弁護士となり,1929年オーストリア・ナチス党に入党。 34年 E.ドルフス首相暗殺後 K.シュシュニック首相に接近,37年国民議会 (下院) 議員,38年内相となった。ドイツのナチスと通じ,38年3月シュシュニックのあとをうけて首相となり,ただちにドイツ=オーストリア合邦宣言を行い,ドイツのオーストリア総督に就任した。 39年ドイツの無任所相,40年オランダ総督。しかし,第2次世界大戦後ニュルンベルク裁判で有罪を宣告され,絞首刑に処された。

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世界大百科事典(旧版)内のザイスインクワルトの言及

【第2次世界大戦】より

…1936年7月の独伊協定以降,ヒトラーは宣伝やナチ党支援を通じてオーストリアに揺さぶりをかけていたが,38年初頭,軍の再編によって起こった国内不安を解消すべくオーストリア進出の実行を決意した。2月12日オーストリア首相シュシュニックをヒトラーのベルヒテスガーデンの山荘に呼びつけ,実質的にオーストリアの従属化を意味する協定を強要し,オーストリア側がそれを3月13日の国民投票で決定するという抵抗の意思を示したとき,3月11日国民投票の中止とナチ党のザイス・インクワルトの首相就任を要求する最後通牒を発した。同日夜シュシュニックは辞任しザイス・インクワルトが首相となると,要請というかたちで12日ドイツ軍は国境を越え翌13日ウィーンに入り,ヒトラーはオーストリアの〈併合〉を宣言した。…

※「ザイスインクワルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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