翻訳|Moravia
チェコ共和国東部をさす歴史的名称の英語読み。チェコ語ではモラバMorava。ドイツ語名メーレンMähren。行政上は南、北モラビアに分かれ、北モラビアには歴史的領土のスレスコ(ドイツ語名シュレージエン、英語名シレジア、中心都市オパバ)が含まれる。面積約2万6000平方キロメートル、人口約417万(2001)。中心都市ブルノ。主要民族はチェコ語を話すチェコ人。北西のチェコモラバ(ボヘミア・モラビア)高地でボヘミアと、南東に延びる小カルパティア山脈、白カルパティア山脈などでスロバキアと分断されるが、南北に開かれ北に流れるオドラ(ドイツ語名オーデル)川と南に流れるモラバ川がつくる河谷を通って、古来、南のオーストリア、アドリア海と、北のポーランド、バルト海とを結ぶ通商路が開かれていた。気候は大陸性で、1月の平均気温は零下3℃前後、7月は北部で14~18℃、南部で18~20℃である。年降水量は北部で700~800ミリメートル、南部で500~600ミリメートル。
工業はモラバ川とオドラ川流域に集中し、北部で豊富に産する石炭と鉄鉱石を原料とする鉄鋼業がオストラバを中心に発達し、その生産量はチェコ第一を誇る。ほかにブルノをはじめオロモウツ、プロステヨフ、プシェロフ、ズリーンなどを核とした工業地区がある。農業ではライ麦が南部、小麦、亜麻、ビート(テンサイ)が中央低地で行われており、林業では北部森林地帯が中心である。
[稲野 強]
6~7世紀に西スラブ人の居住地となり、9世紀初めモラビア王国の版図に入った。王国の崩壊後、ボヘミアのプシェミスル家の統治する領土の一部となる。1182年以降、神聖ローマ帝国の辺境伯領になったが、97年から実質上ボヘミア王の封土となり、その独立性は失われた。1526年ボヘミア王ルドウィーク1世Ludvík Ⅰ(在位1516~26)がオスマン帝国軍との戦闘で敗死すると、モラビアはボヘミアとともにオーストリア・ハプスブルク家の支配下に入る。モラビアは行政的にも、民族的にも独立した存在ではなかったが、ハプスブルク家による強い中央集権化政策が続いたために、ボヘミアとの地域的・民族的一体性は弱くなり、オーストリアとの結び付きを強めていった。19世紀の民族再生運動期にボヘミアのチェコ人がオーストリア政府に自治要求の運動を展開すると、モラビアも地域主義に基づいてボヘミアからの分離を唱えるに至った。1918年10月、モラビアはオーストリアから独立したチェコスロバキアの一地方となった。38年のミュンヘン会談の結果、モラビアはボヘミアとともに一時ドイツの保護領となったが、45年にふたたびチェコスロバキアに編入された。1989年の東欧革命以降、チェコスロバキアではチェコとスロバキアとの分離傾向に拍車がかかったが、モラビアでは強力な地域自治をめざす運動が活発化した。90年6月の自由選挙で「自治的民主主義運動――モラバ・スレスコ協会」が連邦議会で第4位の議席を獲得したのはその現れであった。93年1月のチェコスロバキアの分離・解体によってモラビアはボヘミアとともにチェコ共和国を構成するが、その政治的地位は相対的に高まった。
[稲野 強]
『ピエール・ボヌール著、山本俊朗訳『チェコスロヴァキア史』(白水社・文庫クセジュ)』▽『矢田俊隆編『東欧史』(1977・山川出版社)』▽『南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』(1999・山川出版社)』
チェコ東部の歴史的地域名。チェコ語ではモラバMorava,ドイツ語ではメーレンMährenと呼ばれる。行政上は北モラビア,南モラビア地方に分かれる。面積約2万6000km2,人口約403万(1996)。中心都市ブルノ。主要民族はモラビア方言を話すチェコ人。ドナウ川の支流モラバ川と,そこに注ぐ大小河川流域に広がる地帯で,北西のボヘミア・モラビア高地でボヘミアと,南東に延びる小カルパチ山脈,ビエレ・カルパチ山脈,ヤボルニーキ山脈でスロバキアと分断されるが,南北に開かれ,モラバ川とオドラ川の河谷のつくるいわゆる〈モラビア門Moravská brána〉を通って古来南のアドリア海,オーストリアと,北のポーランド,バルト海とを結ぶ通商路が開かれていた。
工業はモラバ川とオドラ川流域に集中し,北部で豊富に産する石炭と鉄鉱石を原料とする鉄鋼業がオストラバを中心に発達し,生産量ではチェコ第一を誇っている。ほかにオロモウツ,プロスチェヨフ,プシェロフを核とする中部モラビア工業地区,靴工業で知られるズリーン,機械,羊毛,木工,食品加工業の盛んなブルノを中心とした工業地区がある。農業では,ライムギが南部,小麦,亜麻,ビートが中央低地で行われており,林業では北部森林地帯が中心である。
前1世紀半ば,ここにはケルト人が定住していたが,やがてゲルマン人がケルト人を圧迫して定住し,6世紀にはスラブ系住民の入植をみた。9世紀にこの地域は大モラビア帝国の中心となった。帝国の崩壊(906)後,ボヘミアのプシェミシル家の支配を受け,1029年ころ,ボヘミア王国に編入された。1182年神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によりモラビアは辺境伯領に昇格したが,事実上は,同じ神聖ローマ帝国に属するボヘミア王国の副次的領土として残った。12~13世紀にはボヘミアと同様,この地域もドイツ人による植民が激しく行われ,手工業,鉱山業が発達し,都市が次々に興った。1526年,オスマン・トルコとの戦いでボヘミア・ハンガリー兼王ルドビークLudvík1世が敗れると,モラビアもボヘミア,ハンガリーとともにオーストリア・ハプスブルク家の統治するところとなった。
モラビアは行政的にも,民族的にも独立した存在ではなかったが,ハプスブルク家の強い中央集権化政策がつづいたため,ボヘミアとの地域的・民族的一体性は弱くなり,19世紀の民族覚醒期には,モラビア辺境伯領の独自性を唱えるほどであった。
1918年10月28日,モラビアはオーストリア帝国から独立したチェコスロバキア共和国の一地方となった。38年にボヘミアとともに一時ドイツの保護領となったが,45年ドイツの敗北により,再びチェコスロバキアに編入された。93年1月のチェコスロバキアの分離・解体によって,モラビアはボヘミアとともにチェコ共和国を構成することになった。
執筆者:稲野 強
イタリアの作家。本名アルベルト・ピンケルレA.Pincherle。ローマ生れ。骨髄結核のため闘病8年。独学。回復期(1925-28)に処女作《無関心な人々》(1929)を執筆,市民生活の腐敗と無気力を描き好評を博したが,発禁となる。以後,ファシズム政権の圧迫を嫌い,小説執筆のあいだに,新聞社特派員として欧米諸国や中国に旅行。大戦中はカプリ島に隠棲。1943年6月,政変直後のローマへ帰るが,ドイツ軍による逮捕の危険を逃れ山間の僻地に越冬する。この経験がのちに,長編《二人の女》(1957)を生む。戦後は,中編の傑作《アゴスティーノ》(1945),長編《ローマの女》(1947)の成功以後,《軽蔑》(1954),《倦怠》(1960),《関心》(1965),《内面の生活》(1978)など,一貫して現代の精神的危機を実験的リアリズムによって描く。主題性の明確なこれらの長編作品を,モラビア自身は〈評論-小説〉と規定する。一方,短編の名手として短編集《ローマの物語》(1954)ほか,作品はきわめて多い。雑誌《ヌオービ・アルゴメンティ》(1953-64)を創刊,主宰した。評論集《目的としての人間》(1964)ほかでは,作家の〈参加-責務〉を主張。ソ連,インド,中国,アフリカの旅行記のほか,劇作,映画批評の著作,また談話がある。近作は長編《1934年》(1982)。1959-62年,国際ペン会長。2度来日している。
執筆者:米川 良夫
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…1993年1月にスロバキアと分離・独立した。西部のボヘミア(チェコ語ではチェヒČechy),東部のモラビア(チェコ語ではモラバMorava)の二つの地方からなる。モラビアには歴史的領土のシュレジエン(チェコ語でスレスコSlezsko,ポーランド語でシロンスク)が含まれる。…
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【文学】
字義通りには〈新しいリアリズム〉を意味するイタリア語で,文学史的にはふつう,反ファシズム闘争を題材にした第2次大戦後のイタリア文学を総称していう。ただし,ファシズム政権に不従順な小説を発表したことからモラビアの《無関心な人びと》(1929)に,また,労働者の反権力意識の目ざめを描いたことからベルナーリCarlo Bernari(1909‐92)の《三人の工員》(1934)に,ネオレアリズモの起源を求めようとする批評家もいる。また戦後におびただしい数の反ファシズム闘争体験談が出版され,これらを一括してネオレアリズモと呼ぶ向きもある。…
※「モラビア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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