ジャッザール
al-Jazzār
生没年:1720-1804
地中海東岸の要港アッコに君臨した辣腕の地方権力者。生年は1735年の説もある。ボスニア生れのキリスト教徒で無頼の少年時代を経て,イスタンブールで奴隷商人に身売りし,エジプトに赴任する主人に従って同地に渡り,遊牧民制圧で名をあげ有力マムルークにのし上がった。のちマムルークの内紛にまきこまれてシリアに飛び,同地の名望家間の対立に乗じて,中央権力と結び,アッコのパシャとなる。外国人傭兵を増強,通商を独占して1780年ころにはサイダー,トリポリ,ダマスクスの実権を握る。反面,あだ名ジャッザール(屠殺人)の通り残忍過酷な徴税でアレッポやユーフラテス上流の豊かな農業地帯を荒廃させてしまった。
執筆者:林 武
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ジャッザール
al-Jazzār, Aḥmad Pasha
[生]1734頃
[没]1804
中東の政治家。ボスニア出身でみずから奴隷になり,エジプト総督となったオスマン帝国の官僚の部下としてエジプトに来て頭角を現した。やがてシリアに現れ,1775年,ザーヒル・アルウマル打倒に活躍して,その地位を継いだ。オスマン朝に忠誠を誓いながらも,自己の傭兵軍の強化に努め,1799年にはエジプトを征服したナポレオンの軍隊のシリア進入を撃退した。しかし,彼の強兵政策はシリア農村からの過度の収奪を伴い,農村は荒廃した。
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世界大百科事典(旧版)内のジャッザールの言及
【シリア】より
…たとえば,レバノンでシハーブShiḥāb家はドルーズ派から改宗して[マロン派]キリスト教徒になっており,15世紀以来ローマと関係をもつ同派本山の威光と財力とでレバノン山岳部の統一を果たし,たび重なる農民蜂起もフランス軍の力で鎮圧する。一連の農民蜂起の種はアッカー(アッコ)の知事[ジャッザール]が内陸シリアの実権を握り過酷な収奪を続けたことに起因する。 オスマン帝国の実情を憂えてさまざまの改革運動が,宮廷勢力からも近代教育を受けた少壮軍人,官僚からも起こされる。…
【パレスティナ】より
…すなわち,サファドの領主ザーヒル・アルウマルẒāhir al‐‘Umarは勢力を拡大して,1768‐74年露土戦争の際にエジプトのアリー・ベイと同盟し,ロシアの援助を得つつオスマン宮廷に反逆した。また,ザーヒルの権力の崩壊後は,1774‐1804年の間アッカーに拠ったボスニア生れの軍人[ジャッザール]がシリア全土に勢威を伸ばし,オスマン帝国もこれを認めて利用せざるをえなかったが,彼は,1799年にエジプトからシナイ半島を越えてアッカーを衝こうとしたナポレオン軍を,イギリス艦隊に支援されつつ撃退することができた。 このようにして始まった[東方問題]において,[聖地問題]を抱えるこのシリア南部地域は,その展開の焦点となった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」