トリポリ(読み)とりぽり(英語表記)Tripoli

翻訳|Tripoli

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トリポリ」の意味・わかりやすい解説

トリポリ
Tripoli

レバノン北西部にある港湾都市。アラビア語ではタラーブルス Ṭarābulus,またはタラーブルス・アシャーム Ṭarābulus ash-Shām(東のトリポリの意)。首都ベイルートの北北東約 65km,地中海に注ぐアブーアリー川河口およびその両岸に広がる。
前700年頃に建設され,アケメネス朝ペルシア時代の前300年頃にシドンサイダ),テュロスアラドスからなるフェニキアの三都市同盟の主都となった。その後,セレウコス朝シリア,ローマ帝国,後638年頃からはイスラム勢力に支配された。12世紀初頭にはツールーズ伯サン=ジル(レイモン4世)率いる第1次十字軍に包囲され,一部が破壊にあったが,のちの十字軍によって再建され,司教座所在地として,交易・教育の中心地として栄えた。1289年,イスラム王朝のマムルーク朝に滅ぼされ,1516年にオスマン帝国に組み入れられた。その後,内陸部に向かって開拓が進み,港湾地区と広い街路で結ばれるようになった。1830年代にはイブラーヒーム・パシャエジプトに,第1次世界大戦中はイギリスに占領された。1920年,フランスの委任統治領大レバノン Grand Liban(Greater Lebanon)の一部となり,第2次世界大戦中はイギリスと自由フランス軍(→自由フランス運動)の占領下にあった。レバノン独立の 1946年に共和国の一部となった。1958年および 1975~76年にはイスラム教徒の多いトリポリはキリスト教徒が支配する中央政府に対する反乱の中心地となった(→レバノン内戦)。1982~83年にはパレスチナ解放機構 PLOの本部が置かれ,1985年にシリア兵に占領された。1980年代後半以降,都市の経済は回復し始めた。
レバノン第二の都市トリポリは商業,工業の中心地で,主要港や石油精製・貯蔵基地をもつ。また,石鹸や綿製品の製造,海綿採取,たばこや果物の加工が行なわれる。ベイルートとは沿岸鉄道で結ばれている。市内には 1294年建造の大モスク,1336年建造のタイナル・モスク,中世のサン=ジル城,15世紀末に建てられた監視塔「ライオンの塔」などの歴史建造物があるほか,歴史地区とアルミナ港の間の約 70haの敷地には 1962年にブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤーによって設計され,2023年に世界遺産文化遺産に登録された「トリポリのラシッド・カラミ国際見本市」がある。人口 21万2900(2003推計)。

トリポリ
Tripoli

リビアの首都で,主要な港湾都市。アラビア語ではトラーブルス・アルガルブ Ṭarābulus al-Gharb (西のトリポリの意。レバノンのトリポリと区別する) 。リビア北西部,トリポリタニア地方北部,地中海に臨み,リビアの輸出入の4分の3以上を扱う。前7世紀にフェニキア人の植民都市オエアとして建設され,付近のレプチス・マグナサブラタとともに「三つの都市」と呼ばれた。サハラ砂漠横断交易の地中海側根拠地として,たびたび支配者が代わった。ラッカセイ (落花生) ,オリーブ油,マグロ,柑橘類などを輸出。食料品,衣料品,機械類を輸入する。石油化学,皮革,たばこ,絨毯などの工業がある。肥沃なオアシスに立地した美しい町で,港周辺の旧市街にはマルクス・アウレリウス帝の凱旋門 (163) ,カラマンリ・モスク (1740) などがあり,南東に広がる新市街には官庁,劇場など近代的なビルが立ち並び,リビア王国時代の王宮,総合大学などがある。南西 34kmのところに国際空港がある。人口 106万5405(2006)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「トリポリ」の意味・わかりやすい解説

トリポリ(リビア)
とりぽり
Tripoli

北アフリカ、リビア北西部にある同国の首都。地中海岸の商工業・港湾都市で、リビアの政治、経済、文化、交通の中心地である。人口177万3000(1999推計)。市西部の半島に方形住居の密集した古いアラブ風市街があり、その周辺に植民地化以来建設されたヨーロッパ風市街が広がる。旧市街にはローマ時代の凱旋(がいせん)門、16世紀の城塞(じょうさい)、18世紀のモスクなどがある。工業として、後背地の農産物を加工する製粉、搾油、たばこ、缶詰、皮革、織物などがある。国内交通の起点で、南西34キロメートルに国際空港がありローマなどと結ぶ。

[藤井宏志]

歴史

紀元前4世紀、フェニキア人がリビア北西岸に建設したレプティス・マグナ、オエア、サブラタの三つの都市を総称してトリポリス(三都市の意)とよんだことに始まる。現在のトリポリは中央のオエアを継承しており、ほかの二つは遺跡として残るのみである。のちローマの支配を受け、内陸部のオアシスやサハラ以南地域とを結ぶ隊商路の始点として栄えた。7世紀以降アラブ人、スペイン人、ヨハネ騎士団の支配を受けたが、1551~1911年のオスマン帝国の支配下では、リビアを治めるパシャ(王)の首都として政治的中心地となった。1912年イタリアの領土となり、植民地行政の拠点として近代的都市、港湾、道路が建設された。第二次世界大戦では戦場となり、43年にはイギリス軍に占領された。戦後、1951年独立しベンガジとともにリビア連合王国の首都となり、63年の連邦制廃止により単独の首都となった。69年のリビア革命後も首都として発展し人口は増加している。

[藤井宏志]


トリポリ(レバノン)
とりぽり
Tripoli

レバノン北西部の商工業・港湾都市。アラビア語名トラブルース・エシュ・シャムTarābulus esh Shām。フランス語や英語ではトリポリという。首都ベイルートの北64キロメートル、地中海に面する。首都に次ぐ同国第二の都市で、人口21万2900(2003推計)。人口の大多数はスンニー派イスラム教徒で、ほかにアラウィー派、マロン派、キリスト教徒などが住む。周辺にはパレスチナ人難民キャンプが複数存在している。紀元前8世紀にはすでにシドン人、ティロス人、アラド人が3か所に住み分かれ、「三つの都市」を意味するトリポリスTripolisとして栄えていた。紀元後7世紀にイスラムの征服を受け、12世紀に一時十字軍の占領を経験している。以降エジプトのマムルーク朝、さらにオスマン帝国の版図に入った。第一次世界大戦後レバノンの一部としてフランスの委任統治を受けた。これにより、歴史的な後背地であったシリア内陸部と切り離され、その港湾機能は大打撃を受けた。しかし、イラクからパイプラインが通じ、石油積出し港、精油業の中心として栄え、また軽工業も発展した。1975年以来のレバノン内戦では幾度も激しい戦闘の舞台となり、大きな損害を被った。十字軍の城やマムルーク朝時代の望楼「ライオンの塔」などが残り、周辺から先史時代の遺物も発見されている。

[高橋和夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例