翻訳|Damascus
シリア・アラブ共和国の首都。アンチ・レバノン山脈の東麓に位置し,人口161万(2004)。ダマスクスはラテン語で,アラビア語ではディマシュクDimashqあるいはシャームal-Shāmという。シリア地方(歴史的シリア)の中央部にあるオアシス都市で,背後にカシオンQāsiyūn山をひかえ,南東の郊外にはグータal-Ghūṭaの森が広がり,南へ向かってはハウラーンの農耕地帯が展開する。町の用水はバラダーBaradā川,バーナース川,ヤジード川などの小河川に依存し,13世紀にはすでに市内に流れこむ川を暗渠にした水道施設がつくられていた。メソポタミアとエジプトを結ぶ東西のキャラバン・ルートとアラビア半島とアナトリアを結ぶ南北のキャラバン・ルートの交差点に位置し,古くから交通の要衝として繁栄した。
町の起源について確かなことは不明であるが,少なくとも前3000年ころにはすでに都市としての機能を果たしていたらしい。前10世紀にアラム人がここに首都を定めたのに続いて,アッシリア,バビロニア,ペルシアの諸勢力が相次いでこの町を占拠し,アレクサンドロス大王の征服(前333)を機にヘレニズム文化の影響が強まった。直線の街路にはアーケードが建設され,ギリシア風の広場(アゴラ)もつくられた。その後ナバタイ王国の支配を経て,前64年にはローマの属州に編入され,その〈平和〉のもとでダマスクスはおおいに繁栄した。現在も残る北側の城壁やシャルキー門,トゥーマ門などは,いずれもこの時代に建設されたものである。395年にテオドシウス帝が没すると,シリアはビザンティン帝国領に組みこまれた。アベル殺しの行われたとされる〈血の洞穴〉をはじめ聖書にゆかりの深い場所をもつダマスクスは,すでに多くの巡礼者を集めていたが,ビザンティン時代に,洗礼者聖ヨハネの教会をはじめとしていくつかの教会が建設されるようになった。612年,ササン朝ペルシアのホスロー2世は軍を発してダマスクスを占拠したが,その没後はふたたびビザンティン帝国の領有に帰した。この政治的混乱に乗じて,635年,ハーリド・ブン・アルワリード配下のアラブ軍はほとんど何の抵抗も受けることなくダマスクスに入城し,貢納と人頭税の支払を条件に,キリスト教徒の財産保持と生命の安全を保障した。
ウマイヤ朝時代(661-750)には,広大なイスラム帝国の首都として繁栄を謳歌し,政府は官庁の行政用語をギリシア語からアラビア語に改めるとともに,ムスリム人口の増大に対処して聖ヨハネ教会をウマイヤ・モスクに改修した。以後,このモスクはダマスクスにおける信仰生活の中心として機能するが,アッバース朝(750-1258)の成立によって帝国の首都がバグダードに移ると,都市自体の政治的重要性と経済的な活況はしだいに失われた。ダマスクスは諸勢力の争奪の的となり,9世紀から12世紀初めにかけて,トゥールーン朝,イフシード朝,ファーティマ朝,セルジューク朝が相次いでここを占拠した。政治的な混乱に加えて,1069年の火災はモスクや市街地に大きな被害をもたらしたが,この間に生活自衛のための新しい街づくりが進められていった。直線の道路に代えて曲がりくねった小路がはりめぐらされ,これを基礎にモスクや市場(スーク),あるいはパン焼がまや公衆浴場などを共有する街区(ハーラ)が成立した。各ハーラはシャイフ(長)によって統率され,街の若者を中心に編成された任俠的な武力集団(アフダース)を擁していた。キリスト教徒やユダヤ教徒がそれぞれ独自のハーラを形成する場合もあったが,このようなハーラの増大は,モスクや市場の存在とともに,ムスリム都市に独特な景観を与えることになった。
1154年,ザンギー朝のヌール・アッディーンはダマスクスを征服してここに居を定め,シリアの中・北部を統一して対十字軍戦争を積極的に推進した。またシーア派のファーティマ朝に対抗してスンナ派擁護の政策をかかげ,アーディリーヤ学院(現,アラブ・アカデミー)やハディースの研究所(ダール・アルハディース)などをダマスクスに建設した。アイユーブ朝(1169-1250)もこの政策を踏襲し,スルタンやアミールたちはスンナ派,特にシャーフィイー派のウラマーを保護してマドラサ(学院)の建造を競い合った。安定した政権のもとに商工業が発展すると,絹織物,銅細工,ガラス製品などを求めて多数のイタリア商人が来住し,人口も着実に増大していった。つづくマムルーク朝(1250-1517)治下のダマスクスは,カイロから派遣されたマムルーク総督のもとで引き続き繁栄を享受し,市街地は城塞下から北西方へ向けて拡大を続けた。1326年にダマスクスを訪れたイブン・バットゥータは,〈美しさにおいてこの町に勝るところはなく,百万言を費やしてもその魅力を語り尽くすことはできない〉と賞賛している。しかし1348年のペストの大流行によって,盛時には10万を数えた人口も大幅に減少し,さらに1400-01年にはティムールによる徹底的な略奪・破壊を受けて急速に衰えた。またこのとき,多数の工芸家や職人がサマルカンドへ連れ去られたことも,ダマスクスの衰退を早める一因であった。
ザンギー朝からマムルーク朝へかけてのダマスクスは,文化活動の面ではカイロに劣らぬほどの重要な役割を演じた。ウラマーの名家に生まれたイブン・アサーキルは,ヌール・アッディーンの庇護を得て大著《ダマスクス史》を完成し,神秘家イブン・アルアラビーは晩年の約20年をこの町に過ごして《メッカ啓示》その他を著した。11世紀以後,神秘主義思想の流行につれて修道場(ハーンカー,ザーウィヤ)の数はしだいに増大し,マムルーク朝時代のダマスクスには78(うち二つは女性用)の修道場があったと伝えられる。イブン・タイミーヤはこのような神秘主義思想を信仰の堕落であると批判し,ダマスクスを中心に激しい思想闘争を展開した。
1516年,オスマン帝国のセリム1世はダマスクスに入城し,マムルーク朝のシリア支配に終止符を打った。以後ダマスクスは,オスマン帝国の一州都となったために政治的な重要性は失われたが,メッカ巡礼とヨーロッパ貿易によってなお一定の繁栄を保ち続けた。とくにメッカ巡礼の宿駅としてここには毎年多くの巡礼者が集結し,ダマスクス総督はアミール・アルハッジュとして自ら巡礼団をメッカまで先導する役割を果たした。これらの巡礼者は帰路メッカで購入したコーヒーや黒人奴隷を売却し,この影響で16世紀以後になるとダマスクスにもコーヒー店があらわれて人々の人気を集めた。オスマン帝国のシリア支配は18世紀初頭にはすでに弱体化し,これに乗じてアラブ系のアズム`Aẓm家がダマスクスに半独立の政権を樹立した。アズム家の栄華の時代は1750年代までであったが,その権勢の強大さは今でも旧市内に残るトルコ風の宮殿によく示されている。
1832年に始まるエジプトのムハンマド・アリー朝の支配は10年余り続き,この間にイブラーヒーム・パシャの指導のもとに近代的な教育制度が導入された。ヨーロッパ人の来住者が増大するにつれて西欧文化も知識人の間に徐々に浸透し,97年にはダマスクスで最初のアラビア語新聞《シャームal-Shām》が刊行された。1878年にダマスクス総督となったトルコのミドハト・パシャは,曲がりくねった小路を取り壊して直線の大路に市場を移し,ミドハト・パシャ市場やハミーディーヤ市場を開設して市内の面目を一新した。カシオン山に連なる郊外のサーリヒーヤal-Ṣāliḥīyaにも,クルド人やクレタ島からの移住者が住みつき,またトルコ人高官の邸宅が建設されたことにより,12世紀に起源をもつこの市街地はさらに拡大して現在に続く町並みがつくられた。市民生活の変貌は1908年のヒジャーズ鉄道の開設によってさらに加速されたが,ダマスクスをめぐる政治情勢もまたきわめて流動的であった。18年,ファイサル1世はアラブ軍を率いてダマスクスに突入し,翌年開催されたシリア国民議会はファイサルを元首とする大シリア立憲王国の成立を承認した。しかし西欧列強はこれに干渉し,20年からフランスの委任統治が始まると,ダマスクス市民はドルーズ派とともに独立を求めて武装蜂起した。この蜂起はまもなく鎮圧されたが,46年には協定にしたがってフランスの委任統治は終りを告げ,同年シリア共和国が誕生すると,その首都に定められた。
現在は,人口の90%以上をスンナ派のアラブとクルドが占め,ドルーズ派やアラウィー派のイスラム教徒,アルメニア人のキリスト教徒が残りの10%を構成する。ヒジャーズ鉄道が開設されて以来,ダマスクスを基点とする経済活動は着実に拡大し,絹織物や銅細工などの伝統産業も依然として盛んである。文化活動はダマスクス大学とアラブ・アカデミーを中心に行われ,バグダードとともにアラブ世界ではカイロに次いで第2の地位を占める。
執筆者:佐藤 次高
ダマスクスは,中世イスラム世界におけるガラス・染織(ダマスク)・金属工芸(ダマスコ細工)の中心地であった。最も古い遺構はアラム時代のハダド神殿址であるが,後代の建物(神殿,教会,モスク)に組み込まれている。ローマ時代の遺構には,シャルキー門やユピテル・ダマスケヌス神殿址のコリント式列柱がある。おもなイスラム建築の遺構を列挙すると,現存するイスラム最古のモスクであるウマイヤ・モスク(706-714・715),アイユーブ・マムルーク両朝の主要な遺構で,鍾乳石飾り(ムカルナス)で飾られたピーシュタークを有するヌーリーヤ学院(1172着工),サラーフ・アッディーンの廟(12世紀創設。19世紀改修),美しいファサードをもつザーヒリーヤ学院(1279。現在は国立図書館),最古の病院の一つヌール・アッディーンのマーリスターン(1154着工),城砦(13世紀初期),オスマン時代のアスアド・パシャのハーン(1752ころ),アズム宮殿(1749創設。シリアにおける後期オスマン・トルコ宮殿建築の好例)などである。博物館としてはダマスクス国立博物館(先史時代から現代までの発掘品,美術品),軍事博物館(1560年にスレイマン1世が建てた巡礼者用宿舎テッケを転用),民俗博物館(アズム宮殿),アラブ金石文博物館などがある。
執筆者:杉村 棟
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
シリア・アラブ共和国の首都で政治・経済の中心。現存する世界最古の都市の一つで,イスラーム時代にはウマイヤ朝の首都となる。ウマイヤ・モスクなど歴史的建造物が数多く残されている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…また,海面下の地溝では局地的に熱帯性気候が見られ,川沿いの緑と周囲の茶褐色の山肌とが著しい対照をつくり出す。その東側は遊牧民と隊商都市(パルミュラ,ダマスクス,ボストラ,ペトラ,ゲラサ)の世界であった。そこと海岸部,とくにフェニキアの海港都市とは,山間の道路網で結ばれていた。…
…シリアでは,フェニキア時代になるとシドンやテュロスなどの沿岸都市が商業都市国家として繁栄し,また内陸部でも,エルサレム王国の首都エルサレムが神殿や宮殿を伴う丘上の城壁都市として確立した。ダマスクスは,前3000年ころにはすでに都市としての機能を備えていたが,アラム人やペルシア人の支配を経て,アレクサンドロス大王の征服を機にヘレニズム文化の影響が強まった。エジプトのアレクサンドリアと同じく,直線の街路にはアーケードが建設され,ギリシア風の広場(アゴラ)もつくられた。…
※「ダマスクス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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