日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジョイ・ディビジョン」の意味・わかりやすい解説
ジョイ・ディビジョン
じょいでぃびじょん
Joy Division
パンク以降のイギリスのロックに大きな影響力を持ったグループ。実質2年あまりの活動期間だったが、ボーカリストの自殺という衝撃的な終幕も含め、ポスト・パンク期のロック・ミュージックの動向を象徴する存在となった。
セックス・ピストルズのマンチェスター公演を1976年に見たバーナード・ディッケンBernard Dicken(1956― 、ギター)とピーター・フックPeter Hook(1956― 、ベース)は、同年スティッフ・キトゥンズを結成しライブ活動を開始。イアン・カーティスIan Curtis(1956―1980、ボーカル)の加入後にグループはワルシャワと名前を変える。その後、スティーブ・モリスSteve Morris(1957― 、ドラムス)が参加、1978年にグループ名をジョイ・ディビジョンと改め、6月に最初のシングル「アン・アイデアル・フォー・リビング」を発表した後、マンチェスターの新興インディー・レーベルであったファクトリーと契約を結ぶ。
1979年6月にリリースされたデビュー・アルバム『アンノウン・プレジャーズ』は、前身グループのパンク・ロック色の強いサウンドを内向的な方向へと深化させ、ぎくしゃくとつんのめるビートと覚醒的なギター・サウンド、内省的なボーカルによって、パンク以降のロック・ミュージックの新しい感覚を描き出していた。続いて同年10月にはシングル「トランスミッション」を発表、彼らは一躍ポスト・パンクの方向性を示したグループとの評価を受ける。
数多くのコンサート・ツアーを続けながら、1980年3枚目のシングル「ラブ・ウィル・ティア・アス・アパート」をリリース。セカンド・アルバムの録音も行い初のアメリカ・ツアーを目前にしていた5月、ボーカルのカーティスが謎の首吊り自殺をとげる。遺書はなく、動機も不明なままであった。
カーティスの追悼盤となったセカンド・アルバム『クローサー』(1980)の発表後、ジョイ・ディビジョンは解散することになった。残された3人のメンバーは以後、グループ名をニュー・オーダーとしてダンス・ミュージック色を強めたサウンドを展開した。
[増田 聡]