ワルシャワ(読み)わるしゃわ(英語表記)Warszawa

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ワルシャワ」の意味・わかりやすい解説

ワルシャワ
わるしゃわ
Warszawa

ポーランド共和国首都ポーランド中東部、マゾフシェ地方マゾフシェ県にある。人口160万9700(2002)。英語名ワルソー(ウォーソー)Warsaw。市街地はビスワ川中流両岸の河岸段丘上に形成されている。ビスワ川流域の低平な平野は、北ドイツ平野から広大なロシア平原に至る構造平野の一部である。ワルシャワはビスワ川中流域の農業地域の中央にあり、経済的に後進地域の中に島状に存在する大都市である。平均気温は1月零下3.3℃、7月17.9℃で、冬は厳しく夏は過ごしやすい。

 第二次世界大戦で被害を受けたが、戦後、国の経済成長の拠点として発展し、人口は1950年の83万から1960年の116万へ、さらに1970年の135万へと急速に増加した。戦前の工業は繊維、皮革、製粉、マッチなど軽工業が主力であったが、現在は金属・機械工業が中心である。周辺市街地を含めてワルシャワ県を構成し、ワルシャワ県の工業は全工業生産の12.7%(1997)を占め、とくに乗用車(全国生産の22%)、汎用(はんよう)トラクター(70%)、テレビ(36%)の生産が重要である。ほかに化学、金属加工、食品、繊維の諸工業が立地する。ワルシャワ県の工業人口は全就業人口の30.6%を占める(1997)。市北部やビスワ川の右岸に新しい工業地区が建設され、周辺の衛星都市ウルススやジェラニ、プルシュコフは新しい工業地域となった。

 ワルシャワは水陸空の交通上の大結節点で、サンクト・ペテルブルグ、モスクワベルリン、パリ、ウィーンソフィアなどへの国際列車がワルシャワ中央駅から発着する。市南部のオケンツェ国際空港からは東西ヨーロッパ各都市へ航空路が開かれ、ビスワ川にある河港は運河網によりドニエプル川、オドラ(オーデル)川、エルベ川と結ばれ、内陸水運の中心となっている。

 学術、文化、芸術関係の施設としては、ポーランド科学アカデミーとその諸研究所、ワルシャワ大学(1818創立)や工科大学(1826創立)などの高等教育機関、国立博物館、歴史博物館、大オペラ劇場、交響楽団、国立図書館、ワルシャワ公共図書館など、多数が存在する。また1927年以来5年ごとに開かれるショパン国際ピアノ・コンクールは有名である。旧王宮をはじめとする17、18世紀の宮殿は政府関係の庁舎として使われている。南郊にはソビエスキ3世の夏の離宮でバロック様式ビラヌフ宮殿が残る。第二次世界大戦で被害を受けたが旧市街は復原され、市場広場を中心に、14世紀ゴシック様式の聖ヤン教会など古い教会が多く建っている。

[山本 茂]

歴史

10世紀ごろに集落や城塞(じょうさい)ができ、15~16世紀にはマゾフシェ公の居城が置かれた。1526年からポーランド王国領となり、1596年にジグムント3世がここを王国の首都に定めてから発展した。17世紀にスウェーデン軍の侵入やペストの流行によって一時発展を阻害されたが、その後急速に復興し、18世紀後半には著しい発展を示した。第三次ポーランド分割(1795)によってプロイセン領となってからは人口が減少した。1807年にはナポレオンが創設したワルシャワ公国の首都となり、1815年からはウィーン会議で成立したロシア領ポーランド王国の首都となり、1818年には大学が設立され、文化、産業の中心地となった。1830年と1864年に反ロシア蜂起(ほうき)が起こり、蜂起鎮圧後は抑圧政策が強化されるが、19世紀後半にはヨーロッパの諸都市と鉄道で結ばれるようになり、商業の中心地として栄え、人口も急増した。また19世紀末からは労働運動が活発になった。第一次世界大戦中はドイツ軍に占領されたが、1918年、ポーランド共和国の独立に際し、その首都となった。第二次世界大戦中はナチス・ドイツによって占領され、市民の抵抗運動があり、多くのポーランド人やユダヤ人が抑圧、虐殺された。とくに1943年のユダヤ人ゲットーの蜂起に対する弾圧は峻烈(しゅんれつ)を極めた。また1944年8月にはポーランド人の蜂起が起きたが、背後にあったソ連の支援を受けられず、多くの市民が殺され、同年10月降伏した。第二次世界大戦では市の80%が破壊されたが、戦後急速に復興し、とくに旧市街はすべて元どおりに復原された。社会主義体制下、自主独立労組「連帯」などの大衆運動が盛んな時代にはグダニスクなど工業都市のかげに隠れていたが、1989年の東欧革命による社会主義体制と共産党支配の崩壊ののち、東欧諸国からの行商人などの拠点として、また、西側の資本の流入やEU加盟などにより、かつての国際都市の面影を取り戻しつつある。

[安部一郎]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ワルシャワ」の意味・わかりやすい解説

ワルシャワ
Warszawa

ポーランドの首都。ポーランド中東部,マゾウィエツキェ県の県都。英語ではワルソー Warsaw,ドイツ語ではワルシャウ Warschau。ウォラ,オホタ,ジョリボシ,シルドミェシチェ,モコトゥフ,プラガ北,プラガ南の7行政区からなり,県と同等の地位をもつ特別行政区をなす。プラガ北,プラガ南はウィスワ川右岸にあるが,他の5行政区は左岸にあり,人口の7割が左岸に集まっている。 13世紀中頃からの町で,14世紀末以後マゾフシェ諸侯の居城地となり,マゾフシェ地方の中心都市となった。 1526年マゾフシェとともにポーランド王国に属し,1596年ジグムント3世ワーザが王国の首都をクラクフから移して以来急速に発達。 1655~57年スウェーデン軍に破壊され衰退したが,18世紀後半再び興隆し,ポーランド啓蒙主義時代の政治,文化,経済の中心地として繁栄。第3次ポーランド分割により,1795~1806年プロシア占領下に置かれ,1807年ナポレオン1世により解放されたのちワルシャワ公国の首都となった。 1813~14年ロシア軍に占領され,1815年以降ロシア領会議王国 (ポーランド王国) の首都となった。第1次世界大戦中の 1915~18年ドイツに占領され,1918年以後は新生ポーランドの首都。第2次世界大戦では勃発約1ヵ月後にドイツに占領され,1945年1月のソビエト連邦・ポーランド軍による解放まで,ゲットーにおけるユダヤ人迫害,63日間にわたる対独抵抗戦 (→ワルシャワ蜂起 ) など,数々の悲劇を経験し,市街もウィスワ川左岸の 90%が破壊された。戦後再建,拡大され,国家の最高行政機関,文教機関などが集中的に置かれた。周辺地区には機械,電機,金属を中心とする工業地区が形成されている。ウィスワ川左岸の段丘上にあるワルシャワ最古の地区スタレ・ミャスト (旧市街) を中心に,ウィラヌフ宮殿,聖アンヌ聖堂など歴史的建築物の多くが美しく再建され,1980年世界遺産の文化遺産に登録された。ワルシャワ大学 (1818) ,国立博物館,キュリー夫人博物館,ショパン協会などが所在。人口 172万398(2010)。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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