ポーランドの首都で,ワルシャワ県の県都。ポーランド中東部,マゾフシェ地方にあり,政治・経済・学術・文化の中心地。人口169万(2004)。大都市域人口にあたる同県人口は228万(2001)である。市街地はビスワ川中流の両岸の河岸段丘上に形成されている。ビスワ川流域は広大な構造平野の一部にあたり,ワルシャワはビスワ川中流域の農業地域の中央に位置する。経済的には後進地域の真中に島のように存在する大都市である。
第2次世界大戦では市街の85%が破壊される大損害を受けたが,戦後はポーランドの社会経済発展の拠点となった。人口もドイツ占領軍からの解放時にはわずか16万であったが,1970年には132万へと急速に伸長し,戦前の最盛期を上回った。戦前は繊維,皮革,製粉,マッチなど軽工業が主力であったが,現在は金属・機械工業の比重が著しく高い。熟練労働力に基づく機械工業は全工業生産の62.3%(1978)を占め,とくに自動車(全国生産の33%),汎用トラクター(100%),テレビ(68%)は重要である。ほかにエレクトロニクス,光学機械,化学,印刷,高級鋼,食品,繊維などの工業が市内外に多数立地している。ワルシャワ県の工業生産額の全国比は7.3%(1978),ワルシャワ市の工業人口は24万9000で,全就業人口の30.2%を占める(1979)。市の北部やビスワ川右岸に新しい工業地区が建設され,周辺の衛星都市ウルススUrsusやジェラニŻerań,プルシュコフPruszkowは新しい工業地域となった。
ワルシャワは水・陸・空の交通上の大結節点で,サンクト・ペテルブルグ,モスクワ,ベルリン,パリ,ウィーン,ソフィアなどへ国際列車が,ワルシャワ中央駅から発着する。市南部のオケンツェ国際空港は東・西ヨーロッパ各都市へ航空路が開かれ,ビスワ河港もドニエプル川,オドラ川,エルベ川と結ぶ水上交通の中心となっている。
ワルシャワはポーランドを代表する第一級の学術・文化・芸術のセンターである。ポーランド科学アカデミーの20に及ぶ研究所,ワルシャワ大学(1816創立)など高等教育機関,国立の博物館,劇場,交響楽団,ラジオ・テレビ局,出版所,各種学術協会団体,図書館が多数存在し,5年ごとにショパン国際ピアノ・コンクールが開かれる。市南郊にはビラヌフ宮殿があり,また破壊された旧市街は元通りに再建され,14世紀のゴシックの教会,中世の王宮,公園などが市の歴史を伝える建造物として観光客を集めている。
執筆者:山本 茂
現在ワルシャワの町がある地域には,新石器時代から集落が存在したが,都市としての発展は遅れ,ヨーロッパの首都の中では比較的歴史が浅い。これはこの地域がピアスト朝時代(960-1386)なお王国の外側に位置し,マゾフシェ公の支配下にあったことと関連している。
14世紀初頭にドイツ法の変種であるヘウムノ法に基づいて旧市Stare Miastoが,続いて15世紀初頭にそのすぐ北隣に新市Nowe Miastoが建設される。両市は今日でもワルシャワの最も古い街区にその名と輪郭をとどめている。15世紀初めマゾフシェ公がここに居城を移し,公国の首都となった。
しかし,この間にヤギエウォ朝(1386-1572)の同君連合政策により広大なポーランド・リトアニア連合国家が成立し,その中央に位置し,東西南北の交通の要所を占めるワルシャワの,王国にとっての重要性が高まった。マゾフシェ公国はしだいに王国に吸収され,1526年にワルシャワもその一部となる。早くも69年からワルシャワでポーランド国会(セイム)が開催され,73年からは国王選挙も行われるようになる。商業,手工業が急速に発展し,市民の意識が高まった。一方,1525年には都市細民の暴動が起こり,いわゆる第三秩序によって市政参加への道が開かれる。
シグムント3世の遷都によって,ようやく1611年に王国の首都となったが,都市としての発展はしばらく足踏みする。この頃から聖俗の封建領主が市内にユリディカjurydykaと呼ばれる治外法権の領地を設けるようになる。これははじめ市域の拡大,ギルド外の商業,手工業の発展を促したが,やがて市全体の発展にとって桎梏となる。このほかペストの大流行(1625),いわゆる〈大洪水〉時代初期のスウェーデン軍,トランシルバニア(ハンガリー)軍の寇掠(こうりやく)(1655-56),北方戦争中(1700-25)のスウェーデン軍による数度にわたる占領などによって荒廃し,人口も減少した。この結果しだいに商業,手工業が衰退し,大貴族の邸宅都市としての性格を強める。
回復の兆しがみえるようになるのは,ようやく18世紀の40年代,とくに70年代である。ユリディカが廃止され,商業,銀行業,手工業(織物,武器,馬車,皮革,醸造,陶器など)が活発となる。都市細民が増加,小貴族が流入し,萌芽的にブルジョアジー,知識層が形成される。分割の危機に直面して啓蒙の精神に基づく国政改革運動が興り,市民の政治意識が大いに高揚する(四年国会,黒衣行進,コウォンタイの鍛冶場,五月三日憲法など)。第2次分割(1793)後に結ばれた〈蜂起の密約〉に基づき,外国支配に反対する蜂起が敢行され(1794),やがて全国的なコシチューシコ蜂起へと発展する。ワルシャワは最も急進的なポーランド・ジャコバン派の拠点となり,あたかもフランス革命が飛火した観を呈した。
国土の最終的な分割後,プロイセン時代(1795-1806)は地方都市化して衰退したが,ワルシャワ公国の首都として(1806-15)活気を取り戻し,ロシア領ポーランド王国の主都として(1815-1915)飛躍的に発展する。2度にわたる国民蜂起(1830-31年の十一月蜂起,63-64年の一月蜂起)はいずれもワルシャワを主舞台としたが,都市としての発展の妨げとはならなかった。十一月蜂起前の15年間は経済的にとりわけ活気に満ちた時期で,大劇場,ポーランド銀行,ベルベデルBelweder宮殿など多くの記念碑的建造物が建ち,ワルシャワ大学が創立された。
蜂起後しばらくはロシア政府の政治的・経済的抑圧措置で停滞気味となったが,19世紀中葉には金属工業が勃興し,鉄道の重要分岐点としての役割が加わり再び活気を呈するようになった。こうした力強い発展傾向は一月蜂起とその挫折によってもなんら中断されることなく,産業革命によってむしろ加速され,第1次大戦前夜まで爆発的な人口増加,市域拡大が続く。産業ブルジョアジー,労働者階級が誕生し,1890年代から近代的な政党活動,社会主義運動の中心となる。第1次ロシア革命(1905-07)においては,反政府活動が最も盛んな都市の一つであった。他方ワルシャワはいわゆるポジティビズム運動の中心地としてポーランド人の思想生活に大きな影響を与え,ロシア化政策にもかかわらず活発な学芸,出版活動を維持して分割された民族の精神的首都の役割を担うようになる。
ロシア軍はすでに1915年に撤退し,代わってドイツの占領下に入ったが,早くも同年にワルシャワ大学など高等教育機関のポーランド化が行われ,翌年には占領当局の肝いりで臨時国家評議会が召集されるなど,独自の国家形成への歩みが開始された。18年11月新生国家の首都と定められ,政府をはじめ一連の国家機関が続々設置され始めた。20年8月ソビエト・ロシア軍がビスワ川の対岸に迫ったが,ポーランド軍が奇跡的な勝利を収めた(ポーランド・ソビエト戦争)。以後独立国の首都として主要な国政上の事件を目撃することになる。
26年のJ.ピウスーツキのクーデタに際しては市街戦が起こり,200人の死者が出た。両大戦間期の経済は概して停滞的で金属,電気製品,雑貨,衣服,皮革などの伝統的な産業以外はあまり伸びなかったが,一国の首都として行政機関その他の公共施設が整備されるにつれて人口も増え,第2次大戦直前にはほぼ戦後の水準に達した。しかし,戦争(1939-45)は数世紀にわたる発展を一挙に帳消しにするほどの破壊をもたらした。
緒戦におけるドイツ軍の爆撃,占領後の住民迫害,抵抗運動弾圧,ユダヤ人ゲットーの封鎖,ゲットー蜂起(1943)に際しての破壊,ワルシャワ蜂起(1944)に際しての破壊などを合わせると,この戦争によりこの都市の財貨の75%,人命85万(戦前人口の66%)が失われた。このため戦後一時ウッチに遷都するという案が真剣に検討されたほどである。
戦後統一労働者党(共産党)政権は,多大の費用を投じて旧市,新市などの歴史的街区や建造物の復旧を図る一方で,大胆な開発・再開発計画を実施し,市の相貌を一変させた。また工業化計画に沿って伝統的な産業を再建するとともに自動車,製鋼,製薬などの新しい工業部門を興した。この結果人口は急速に回復したが,住宅建設や交通機関の整備が追いつかず,大きな問題となっている。
政治的・文化的機能が首都に集中されるに伴い,役人と知識人の都市という性格が強まり,国民の政治生活において果たす役割に微妙な変化が生じている。党内改革派や知識人が主役を演じた56年の非スターリン化(ポズナン暴動,ゴムルカ復帰,ソ連との不平等な経済関係の是正)や68年の三月事件(ミツキエビチの戯曲の上演禁止に対する学生の抗議,行動を口実にして,多数の知識人,学生が投獄,追放された事件)においては,ワルシャワの役割は際だっていたが,70,76年の食糧品の値上げをめぐる暴動,80-81年の食肉の値上げ反対ストライキと自主独立労組〈連帯〉の結成など大衆運動が前面に出るに及んで,その役割は控え目になっている。しかし,ソ連でのペレストロイカや東欧諸国における体制変動とともに,東欧諸国から多くの行商人や季節労働者が流入し,また西側資本もしだいに浸透しはじめ,ワルシャワは再び国際的な都市に変わりつつある。
執筆者:伊東 孝之
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ポーランド共和国の首都。ポーランド中東部、マゾフシェ地方マゾフシェ県にある。人口160万9700(2002)。英語名ワルソー(ウォーソー)Warsaw。市街地はビスワ川中流両岸の河岸段丘上に形成されている。ビスワ川流域の低平な平野は、北ドイツ平野から広大なロシア平原に至る構造平野の一部である。ワルシャワはビスワ川中流域の農業地域の中央にあり、経済的に後進地域の中に島状に存在する大都市である。平均気温は1月零下3.3℃、7月17.9℃で、冬は厳しく夏は過ごしやすい。
第二次世界大戦で被害を受けたが、戦後、国の経済成長の拠点として発展し、人口は1950年の83万から1960年の116万へ、さらに1970年の135万へと急速に増加した。戦前の工業は繊維、皮革、製粉、マッチなど軽工業が主力であったが、現在は金属・機械工業が中心である。周辺市街地を含めてワルシャワ県を構成し、ワルシャワ県の工業は全工業生産の12.7%(1997)を占め、とくに乗用車(全国生産の22%)、汎用(はんよう)トラクター(70%)、テレビ(36%)の生産が重要である。ほかに化学、金属加工、食品、繊維の諸工業が立地する。ワルシャワ県の工業人口は全就業人口の30.6%を占める(1997)。市北部やビスワ川の右岸に新しい工業地区が建設され、周辺の衛星都市ウルススやジェラニ、プルシュコフは新しい工業地域となった。
ワルシャワは水陸空の交通上の大結節点で、サンクト・ペテルブルグ、モスクワ、ベルリン、パリ、ウィーン、ソフィアなどへの国際列車がワルシャワ中央駅から発着する。市南部のオケンツェ国際空港からは東西ヨーロッパ各都市へ航空路が開かれ、ビスワ川にある河港は運河網によりドニエプル川、オドラ(オーデル)川、エルベ川と結ばれ、内陸水運の中心となっている。
学術、文化、芸術関係の施設としては、ポーランド科学アカデミーとその諸研究所、ワルシャワ大学(1818創立)や工科大学(1826創立)などの高等教育機関、国立博物館、歴史博物館、大オペラ劇場、交響楽団、国立図書館、ワルシャワ公共図書館など、多数が存在する。また1927年以来5年ごとに開かれるショパン国際ピアノ・コンクールは有名である。旧王宮をはじめとする17、18世紀の宮殿は政府関係の庁舎として使われている。南郊にはソビエスキ3世の夏の離宮でバロック様式のビラヌフ宮殿が残る。第二次世界大戦で被害を受けたが旧市街は復原され、市場広場を中心に、14世紀ゴシック様式の聖ヤン教会など古い教会が多く建っている。
[山本 茂]
10世紀ごろに集落や城塞(じょうさい)ができ、15~16世紀にはマゾフシェ公の居城が置かれた。1526年からポーランド王国領となり、1596年にジグムント3世がここを王国の首都に定めてから発展した。17世紀にスウェーデン軍の侵入やペストの流行によって一時発展を阻害されたが、その後急速に復興し、18世紀後半には著しい発展を示した。第三次ポーランド分割(1795)によってプロイセン領となってからは人口が減少した。1807年にはナポレオンが創設したワルシャワ公国の首都となり、1815年からはウィーン会議で成立したロシア領ポーランド王国の首都となり、1818年には大学が設立され、文化、産業の中心地となった。1830年と1864年に反ロシア蜂起(ほうき)が起こり、蜂起鎮圧後は抑圧政策が強化されるが、19世紀後半にはヨーロッパの諸都市と鉄道で結ばれるようになり、商業の中心地として栄え、人口も急増した。また19世紀末からは労働運動が活発になった。第一次世界大戦中はドイツ軍に占領されたが、1918年、ポーランド共和国の独立に際し、その首都となった。第二次世界大戦中はナチス・ドイツによって占領され、市民の抵抗運動があり、多くのポーランド人やユダヤ人が抑圧、虐殺された。とくに1943年のユダヤ人ゲットーの蜂起に対する弾圧は峻烈(しゅんれつ)を極めた。また1944年8月にはポーランド人の蜂起が起きたが、背後にあったソ連の支援を受けられず、多くの市民が殺され、同年10月降伏した。第二次世界大戦では市の80%が破壊されたが、戦後急速に復興し、とくに旧市街はすべて元どおりに復原された。社会主義体制下、自主独立労組「連帯」などの大衆運動が盛んな時代にはグダニスクなど工業都市のかげに隠れていたが、1989年の東欧革命による社会主義体制と共産党支配の崩壊ののち、東欧諸国からの行商人などの拠点として、また、西側の資本の流入やEU加盟などにより、かつての国際都市の面影を取り戻しつつある。
[安部一郎]
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ポーランドの首都。15世紀に城砦から発達し,商業都市として栄えた。ポーランド‐リトアニア連合国家の中心に位置することから16世紀には国会と国王選挙の開催の場となり,さらに1611年にクラクフからの遷都が終わったことで,名実ともにポーランドの首都となった。18世紀末のポーランド分割後はロシア領となり,1918年の独立回復後,再び首都となる。第二次世界大戦中,ワルシャワ蜂起ののちに街は瓦礫(がれき)となったが,戦後復興した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 KNT近畿日本ツーリスト(株)世界遺産情報について 情報
…従来の保存事業が,文化遺産と日常生活を別個の次元でとらえがちであったのに対して,文化遺産を継承することによって日常の生活環境を向上させるという姿勢が生じたのである。このほか,第2次大戦による被災を復旧するにあたって,ナチス・ドイツによる歴史の抹殺を復原によってくつがえそうとしたポーランドのワルシャワの例などあり,町並み保存の思想と実例は多様である。【鈴木 博之】。…
※「ワルシャワ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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