ストレーザ会議(読み)すとれーざかいぎ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ストレーザ会議」の意味・わかりやすい解説

ストレーザ会議
すとれーざかいぎ

1935年4月11~14日、イタリア北西部のストレーザStresaで開催されたイギリスフランス、イタリア三国の首脳会議。同年3月16日のドイツ再軍備宣言後のヨーロッパにおける平和再建の方策と対独態度を決定するため、4月15日から開かれる国際連盟理事会に先だって招集された。出席者は、イギリス首相マクドナルド、外相サイモン、フランス首相フランダン、外相ラバル、イタリア首相ムッソリーニなどであった。会議後に出された共同決議では、フランスの連盟提訴の支持、オーストリア情勢の再検討、空軍条約の起草軍備縮小のための国際協定の推進などが、またイギリス、イタリア宣言では、ロカルノ条約上の義務の履行が表明された。最終宣言で、三国は、ヨーロッパの平和を脅かすいかなる一方的条約廃棄にも反対し、共同行動をとるとされた。この三国の反独協商は、当時「ストレーザ戦線Stresa Frontとして宣伝されたが、具体的な対策を欠くものであり、同年6月のイギリス・ドイツ海軍協定の成立によって解体した。

[植田隆子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ストレーザ会議」の解説

ストレーザ会議(ストレーザかいぎ)
Stresa

1935年4月,イギリス,フランス,イタリアの3国が北イタリア・マッジョーレ湖畔の保養地ストレーザで開催した会議。マクドナルドラヴァルムッソリーニらの出席のもとに,再軍備を開始したドイツのヴェルサイユ条約侵犯,オーストリアの独立維持,バルカン問題軍縮問題などが話し合われ,ドイツの脅威に3国が共同して対抗することが討議された。この協調姿勢はストレーザ戦線と呼ばれ数カ月続いたが,同年10月にイタリア‐エチオピア戦争が始まると崩壊し,しだいにイタリアとドイツは接近していった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ストレーザ会議」の解説

ストレーザ会議
ストレーザかいぎ
Stresa

1935年4月,イギリス・フランス・イタリアが北イタリアのストレーザで開いた会議
ヒトラーによるヴェルサイユ条約軍事条項の一方的破棄に抗議し,ドイツ再軍備問題の国際連盟提訴,ロカルノ条約の再確認などを決議した。これにより,3国の提携関係がストレーザ戦線として成立した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android