改訂新版 世界大百科事典 「イタリアエチオピア戦争」の意味・わかりやすい解説
イタリア・エチオピア戦争 (イタリアエチオピアせんそう)
19世紀末以降,イタリアが2度にわたってエチオピアに対して行った侵略戦争。イタリアは1880年代にエチオピアのアッサブからマッサワに至る紅海沿岸に進出し,90年1月この地域をエリトリア植民地として支配下においた。一方1889年エチオピア皇帝位継承争いに乗じてショア王(のちエチオピア皇帝)メネリクと友好通商協定(ウッチャリ協定)を結び,エチオピアの保護領化を狙った。93年メネリクは協定を破棄してイタリアの干渉を排除しようとしたが,イタリアはエリトリア植民地を拠点としてエチオピアへの軍事侵略を続けた。アフリカ進出は,強力国家をめざすクリスピ首相とそれを支持する造船・海運業者によって推進されたが,北部の商工業ブルジョアジーは進出に消極的で国内世論は分裂していた。イタリアの侵略行為はエチオピアの強い抵抗にあい,ついには96年3月アドワの戦でイタリア軍総勢1万6000のうち約6000の戦死者をだす大敗に終わって,クリスピ首相は失脚した。同年10月アジス・アベバ平和協定が結ばれてエチオピアの主権が保障された。
その後40年間エチオピアは独立を維持したが,イタリアはファシズム政権のもとで再び侵略を開始する。ムッソリーニ首相は1934年ころからエチオピア侵略計画を具体化し始めるが,イタリア経済にとってエチオピアの領有がどうしても必要だったというより,対外進出でファシズム政権の力を誇示して大恐慌以来沈滞ぎみの国民生活に活力を与えることが狙いだった。また外交関係において,イタリアとナチス・ドイツの接近を恐れるフランスとイギリスがこの侵略計画に強い反対の態度をとらなかったこともムッソリーニの意図を容易にした。34年12月イタリアはワルワルでエチオピアとイタリア領ソマリランド間の国境紛争を起こして侵略の準備を進め,一方,エチオピア皇帝ハイレ・セラシエは国際連盟に提訴して国際世論に訴えた。列強の利害がいり乱れた国際連盟の交渉がはかどらぬままに,35年10月3日デ・ボーノ将軍を総司令官とするイタリア軍はエチオピアへの侵略を始めた。国際世論の非難を浴びながらも,今回の侵略には国内での反対の声は少なく,ファシズム政権もこの侵略にできるだけ国民戦争の性格を与えるように努めた。国際連盟はイタリアに経済制裁を課したが,ほとんど効果の伴わないものだった。イタリア軍は緒戦の勝利のあと,総司令官をデ・ボーノから軍部の切札バドリオ将軍に代え,第1次大戦以後に開発された近代兵器を駆使しての総合作戦を展開した。エチオピア側は軍事力に劣りながらもラス(地方豪族)間の連携をとってイタリア軍を分断し,よく抗戦した。しかし兵器の大量投入に加えて毒ガスまでも使用したイタリア軍の攻勢は続いて,36年5月5日首都アジス・アベバが陥落し,同9日にはイタリア領エチオピア帝国の成立が宣言された。だがイタリアのエチオピア支配は長続きせず,第2次大戦中の41年にゲリラ軍とイギリス軍の反撃をうけてイタリア軍は追放され,エチオピアの主権が回復した。
執筆者:北原 敦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報