スラブ人会議(読み)スラブじんかいぎ(その他表記)Slovanský sjezd[チエコ]

改訂新版 世界大百科事典 「スラブ人会議」の意味・わかりやすい解説

スラブ人会議 (スラブじんかいぎ)
Slovanský sjezd[チエコ]

1848年6月2日から12日までボヘミアの首都プラハで開催された史上初のスラブ民族全体会議。ドイツ語でSlawen Kongressハンガリーとドイツの接近と,同年5月に始まったドイツ統一問題を掲げるフランクフルト国民議会に対抗して,オーストリア帝国内のスラブ人の結束を図る目的で開かれた。主唱者はチェコ人パラツキー,スロバキア人シャファーリクら。参加者はオーストリア帝国以外に居住するスラブ人を含めた約360名。会議は汎ロシア主義と一線を画し,オーストリアの解体を望まず,あくまで帝国内での諸民族の自治を要求するオーストリア・スラブ主義の線に沿って進められた結果,帝国解体論者は失望し,隣接民族相互の利害対立が露呈したにすぎなかった。審議は6月12日にプラハで発生した労働者,学生,市民らの対オーストリア軍蜂起で中断され,そのまま解散された。唯一の成果として,政治的・民族的抑圧を非難し,すべての民族の平等を訴えた〈ヨーロッパ民族への声明〉が採択されたことがあげられる。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のスラブ人会議の言及

【プラハ】より

…19世紀半ばプラハの人口は約11万で,人口比はドイツ人(ユダヤ人を含む)6に対しチェコ人4であったが,48年の農奴解放令後,ボヘミアの農村からのチェコ人農民の流入が激しく,人口構成も逆転していき,たとえば61年のプラハ市議会のチェコ人議員数はドイツ人を上回った。 1848年6月に,プラハでは史上初めてのスラブ人会議が開かれ,オーストリア帝国内のスラブ人の大同団結を訴えた。また同時にプラハでは市民,労働者,学生の反オーストリア蜂起が起こったが,短期間で鎮圧され,反革命を勢いづかせる契機をつくった(48年革命)。…

【48年革命】より

…だがこのチェコ民族主義はハプスブルク帝国を維持しながらその中でチェコ人の自治を最大限に獲得しようというもので,しかも要求からは労働者の〈労働の権利〉の要求や農民の賦役廃止の要求が抜け落ちていた。このチェコ民族主義者によって6月2日にプラハに招集された〈スラブ人会議〉もハプスブルク帝国の存続を前提とした〈オーストリア・スラブ主義〉を提唱し,帝国解体をとなえるバクーニンらの批判をまねいた。しかもこの会議は6月12日のプラハの急進派の蜂起と,蜂起を鎮圧したウィンディッシュ・グレーツ軍の前になんの成果もなく解散させられてしまった。…

※「スラブ人会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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