1848年の三月革命(48年革命)に際し,ドイツ統一憲法を審議するためにフランクフルト・アム・マインで開かれた史上最初の全ドイツ議会。成年男子を有権者とし,住民5万人に1人の割合で全ドイツから選ばれた議員585名から成り,フランクフルトのパウルス教会を議場として5月18日に開会。議員たちは文字どおりドイツの〈選良〉で,〈教授議会〉の異名をもつほど学者が活躍したが,議員の職業構成は裁判官157,高級官吏118,弁議士66,教師57,大学教授49,また農業経営者60,商人46などで,官吏が非常に多いことが特徴である。なお政党組織はまだ存在せず,議員たちはゆるい同志的結合で結ばれていただけであったが,大別して右派,中央右派,中央左派,左派の4グループがあり,その中では両中央派が圧倒的多数を形成し,有名な教授たちは多く中央右派に属していた。
議会は6月オーストリアのヨーハン大公を帝国摂政とするドイツ中央政府を樹立したのち,憲法の審議に入った。憲法はドイツ諸国を連邦制的に統一するとともに〈ドイツ国民の基本権〉を定めようとし,このうち〈基本権〉の部分は48年12月に完成して直ちに発布されたが,統一ドイツ国の国制に関しては〈大ドイツ主義〉と〈小ドイツ主義〉の対立が生じて審議は紛糾した。しかしドイツ系オーストリアをその他のオーストリア領(ハンガリー,北イタリアなど)と切り離してドイツ国に含めようとする〈大ドイツ主義〉は,その間に態勢を立て直したオーストリア政府によって拒否され,議会は結局実質的に〈小ドイツ主義〉の道をとって,49年3月憲法を可決するとともにプロイセン国王を世襲のドイツ皇帝に選んだが,国民主権に基づくこの〈小ドイツ〉的帝冠はプロイセン国王自身によって拒否されて,議会の全事業は宙に浮いてしまう。議会は事実上解散状態となり,あくまで憲法の施行を主張する民主主義者議員約100名は,6月議場をシュトゥットガルトに移して議事を続行したが,同月18日これもビュルテンベルク政府により解散を強制されて,議会の歴史は終わる。しかしフランクフルト国民議会は,国民によって選ばれた最初の全ドイツ議会として,そして何よりもその真剣な憲法審議を通じて,従来幾多の領邦国家に分かれたままの状態にあったドイツ人に共通のドイツ国民意識を抱かせた点で,ドイツ史上非常に大きな意味をもった。またその連邦制憲法は,それ自体が実施されるには至らなかったとはいえ,その多くの条項がのちのドイツ帝国憲法,またワイマール憲法に取り入れられており,この点からしてもドイツ統一史上に大きな一里塚を築いたといえる。
執筆者:坂井 栄八郎
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「一八四八年の革命」(三月革命)の過程で、準備議会を経て、5月18日フランクフルトFrankfurtの聖パウロ教会に開設されたドイツ最初の国民議会。その任務は、ドイツ統一のための憲法草案を審議することであった。議会では、共和制を主張する急進民主主義者は初めから排除され、立憲君主制のもとでの自由主義的改良を目ざす穏健派が多数を占めた。しかも後者の間では、オーストリアを盟主として統一を達成しようとする大ドイツ主義と、オーストリアを除外しプロイセンを中心に統一を実現しようとする小ドイツ主義とが対立して審議は難航した。しかし、ウィーンとベルリンで革命勢力が敗北する状況のなかで、ついに小ドイツ派が多数を制し、49年3月28日、議会はドイツ国憲法を公布すると同時にプロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム4世をドイツ皇帝に選出した。ところが国王が即位を拒絶したため、国民議会は事実上崩壊した。これに抗議して、南西ドイツでは憲法擁護のための反乱が起こり、5月末になっても左派議員たちはシュトゥットガルトに場所を移してなお議会を続けた(残骸(ざんがい)議会)が、すべてプロイセンの武力によって鎮圧され、6月に国民議会はあえない最期を迎えた。
[良知 力]
1848年5月,三月革命後の革命的気運のうちに,フランクフルト・アム・マインのパウロ教会で開かれたドイツ最初の全国的議会。議員は各邦から普通選挙によって選出された。ドイツ統一憲法の審議,制定を課題としたが,大学教授など学者が多かったので,論争に多くの時間が費やされた。しかし48年12月にドイツ国民の基本法を作成し,49年3月にはドイツ国憲法を作成,公布した。この憲法は世襲の皇帝のもとでの立憲君主制を採用し,議会はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を皇帝に選出した。しかしプロイセン王がこれを受けなかったので紛糾を生じ,結局左派のみが議会に残り,シュトットガルトに移って会議を続けたが,ヴュルテンベルク政府の武力弾圧で解散させられた。
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…このおりに古い市壁と三十年戦争期に構築されていた稜堡は取り壊され,美しい緑地帯に変えられた。
[自由と統一――フランクフルト国民議会]
1816年トゥルン・タクシス宮は,ドイツ連邦議会の所在地となった。自由と統一を求める民族運動のなかで,この反動的な議会の改廃を求める急進派学生と手工業者は,33年哨兵本部を襲って政治犯を解放し,一斉蜂起を企てたが失敗し,ただちに弾圧をうけた。…
…集会やデモの続いていたベルリンでは3月18日に事態は市民・労働者と軍隊の全面的衝突に発展し,全市にバリケードを築いて闘った市民・労働者がプロイセン史上初めて常備軍を打ち破った。このウィーンおよびベルリンにおける〈三月革命〉において労働者・小市民層は積極的な役割を果たし,社会革命への期待を抱かせたが,4月以降〈フランクフルト国民議会〉が人々の関心を集めていく。3月5日のハイデルベルク集会,3月30日のフランクフルトの〈準備議会〉を経て5月18日に召集された〈国民議会〉においては結局ガーゲルンらの穏健自由主義者が主導権を握り,〈ドイツ連邦〉との妥協を図りながらもっぱら憲法討議に時間を費やしていく。…
※「フランクフルト国民議会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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