チェコの首都。中央ボヘミア地方の中心都市で,1993年1月にチェコとスロバキアに分離するまではチェコスロバキアの首都だった。ドイツ語ではプラークPrag,英語ではプラーグPragueと呼ばれる。この国最大の都市で,政治,経済,文化,交通の一大中心地。人口118万(2005),市域面積185km2。ラベ(エルベ)川の支流ブルタバ(モルダウ)川が市の中央を貫流し,起伏の多い丘陵地によって盆地が形成されている。気候は大陸性で,年平均気温9.3℃,1月は0℃と比較的温暖で,7月は19℃,年降水量は487mmと乾燥している。
プラハは大別して,ブルタバ川左岸にあるフラッチャーニ(プラハ城のある地域)とマラー・ストラナ(小市区),右岸のスタレー・ムニェスト(旧市街),ノベー・ムニェスト(新市街)を中心に発達し,郊外の工業地区を市域に編入しつつ拡大していった。
現在のプラハは行政,文化の中心であるばかりでなく,商工業都市としてもチェコの指導的地位を占めている。ことに工業地帯として重要で,この国の工業生産の約10%を生産している。そのうち50%以上は機械製造の分野である。すなわちあらゆる種類の機械,機関車,自動車,電気工学機器が製造されている。その他食品工業ではこの国最大の集中度を示し,醸造,食肉加工,製粉業,近年では冷凍食品業が盛んとなってきている。
プラハはこの国最大の交通の集中点で,ウィーンとベルリンを結ぶ鉄道をはじめ,ブルノ,ブラティスラバを経てハンガリーのブダペストに至る鉄道の起点でもあり,プルゼニ,ヘプを経由してニュルンベルクに至る鉄道の始発点でもある。市の中心部から約11km西方にルジニェ国際空港がある。市内交通は市電,トロリー・バスなどのほか,近年地下鉄網が完成し,郊外へ広く延びている。
8~9世紀にはプラハ城の基礎となる城砦とビシェフラートの城砦がつくられ,両城砦の間に西スラブ系チェコ人が集落をつくって定住した。ボヘミアを統治したチェコ人王朝のプシェミスル家の君主がこの町の発展の基礎を与え,キリスト教を普及させるなかで,973年にはここに司教座が置かれた。11世紀以降,ユダヤ人やドイツ人が商人・職人として定着し,彼らの活躍によって西欧と東欧の通商路となる基礎ができた。ことにユダヤ人は12世紀には町の一部に壁に囲まれたユダヤ人街(ゲットー)をつくり,20世紀までプラハの商工業界で大きな力を行使してきた。
13世紀にボヘミアを中欧一の大国にのしあげたボヘミア国王オタカル2世は,ドイツ人の入植を積極的に奨励し,ブルタバ川左岸にマラー・ストラナ(小市区)をつくった。彼の統治下でプラハは都市の自治権を獲得するまでになった(1257)。しかしプラハが飛躍的に発展し,〈黄金のプラハ〉の名をほしいままにし,ヨーロッパの経済,文化,政治の中心地となったのは14世紀半ばのことで,神聖ローマ皇帝に選ばれたルクセンブルク家のカール4世(ボヘミア国王カレル1世)がプラハを帝国の都に定めたとき(1346)であった。1344年にはプラハはマインツの教会支配を離れて,独立した大司教座に昇格した。ブルタバ川右岸にある最も古い市街区(スタレー・ムニェスト)の南側にノベー・ムニェスト(新市街)が誕生し(1348),ゲットーも発展した。町はゴシック式の建造物で飾られ,中欧で最初の大学であるカレル大学(プラハ大学)もつくられ(1348),ヨーロッパ全土から学生を集めた。またペトラルカなどのイタリア人文主義者が宮廷に招かれ,中欧ルネサンスを招来させた。当時人口は4万を数えた。
15世紀と17世紀のヨーロッパ史上重要な宗教紛争はいずれもプラハを軸に展開した。すなわち,15世紀のフスの宗教改革運動の発端はプラハで,彼は旧市街のベツレヘム礼拝堂で,教会を非難し,聖書による福音を民衆に説いた。ドイツ人の支配していたカレル大学はチェコ人の握るところとなった。フスの処刑に続いて起こったフス派運動でプラハは穏健派のウトラキスト派の根拠地として,ボヘミア南部のタボルに居を構えた急進派のタボル派と対立した。
フス派戦争以後ボヘミアの実権を握ったのは,短期間を除きオーストリア・ハプスブルク家で,この王朝はウィーンに中心をもったので,プラハの政治的重要性は徐々に弱まっていった。ハプスブルク家の皇帝のうち,ルドルフ2世だけがプラハに住み,彼はデンマークの天文学者であるチコ・ブラーエ,弟子のJ.ケプラーたちを保護し,芸術品を収集し,後世〈ルドルフのプラハ〉として評価されるほど文化の華が開いた。
1618年に始まる三十年戦争の契機となった事件もプラハで起こった。ボヘミアのプロテスタント貴族が,カトリック信仰を武器に中央集権化を強力に推進しようとするハプスブルク朝に逆らい,ドイツのプロテスタント派のファルツ伯を国王に据えたことが発端であった。ハプスブルク家は教皇の支持を受けてボヘミアに十字軍を派遣し,20年プラハ近郊のビーラー・ホラの戦でボヘミア貴族軍を破った。ボヘミアの貴族やプラハの有力者は旧市街広場で斬首された。この事件が三十年戦争へと発展し,31年にはプラハはザクセン軍によって征服・略奪され,46年にはスウェーデン軍によってフラッチャニーと小市区が占領された。三十年戦争後は,ボヘミアはハプスブルク家の属領的存在となり,ドイツ化と再カトリック化が進行するなかで,プラハはドイツ人の支配する町となり,政治的重要性を失い,17世紀半ば以降,一地方都市に堕した。
18世紀に入ると,プラハはオーストリアとプロイセンの戦争で幾度か戦場となったが,オーストリアはプロイセンに経済上重要なシュレジエンを奪われたため,その代替にボヘミアの産業育成に努めた。その結果,プラハは繊維マニュファクチュアが興り,経済的活況を呈し,18世紀後半には人口は8万人に達した。1784年にヨーゼフ2世のもとで,それまでプラハを構成していた4市の市参事会が合併され,宗教的意味をもつゲットーも廃絶され,ユダヤ人はドイツ人化された。この時代,建築様式の面でも新たな進展がみられ,豊かな商人や貴族は著名な建築家や芸術家をプラハに招き,町をバロック様式の建造物で飾った。
19世紀の30年代に工業が飛躍的に発展し,産業育成のための奨励団体が設立され,市内と隣接地に繊維工場が続々出現した。ことに1845年のウィーン~プラハ間の鉄道敷設後に始まる産業革命で,プラハはハプスブルク帝国内での最大の工業都市となった。19世紀半ばプラハの人口は約11万で,人口比はドイツ人(ユダヤ人を含む)6に対しチェコ人4であったが,48年の農奴解放令後,ボヘミアの農村からのチェコ人農民の流入が激しく,人口構成も逆転していき,たとえば61年のプラハ市議会のチェコ人議員数はドイツ人を上回った。
1848年6月に,プラハでは史上初めてのスラブ人会議が開かれ,オーストリア帝国内のスラブ人の大同団結を訴えた。また同時にプラハでは市民,労働者,学生の反オーストリア蜂起が起こったが,短期間で鎮圧され,反革命を勢いづかせる契機をつくった(48年革命)。
19世紀後半,この町は工業的発展のなかで生まれたチェコ人ブルジョアジーと労働者階級による民族運動,労働者運動が目だち,運動の矛先は,富の大半を握るドイツ系ユダヤ人金融業者,大ブルジョアジーであった。チェコ人ブルジョアジーの台頭は民族運動を激化させ,82年にはカレル大学はチェコ人大学とドイツ人大学に分離した。
1918年10月28日,プラハでチェコスロバキア共和国の創立が宣言され,プラハは共和国の首都となった。20年,郊外の工場,住宅の建設によって膨張し,チェコ人労働者階級の大多数が居住していた38の隣接地域を編入して大プラハがつくられ,人口も約70万になった。38年にプラハはドイツ軍によって占領され,〈ボヘミア・モラビア保護領〉が建設されたが,45年にソ連軍によって解放された。68年のいわゆる〈プラハの春〉というチェコスロバキアの自由化の運動は,この町から生まれたが,ソ連の率いるワルシャワ条約機構軍の侵攻によって終焉した。
プラハはヨーロッパのなかでも中世のおもかげを最も色濃く残している美しい町の一つである。ことに神聖ローマ帝国の帝都であった14世紀の後期ゴシック様式の建造物と,15~18世紀のルネサンス,バロック,ロココ様式の建造物が町の中心のいたるところで見られ,〈百塔の町〉にふさわしい景観を示している。左岸の丘にそびえるプラハ城はみごとなバロック式の宮殿で,現在大統領官邸となっている。城内のゴシック様式の聖ビート大聖堂(プラハ大聖堂)はボヘミア王国のシンボル的存在で,929年に造られた教会を基礎に,1344年にゴシック様式で改築が開始され,20世紀半ばに完成をみた。丘の下方のマラー・ストラナにはバロック様式の聖ミクラーシュ教会をはじめ,さまざまな様式の教会があるほか,ワレンシュタインなどのボヘミアの大貴族の邸宅がある。ブルタバ川にはいくつかの橋がかかっているが,そのうち最も古く有名な石橋は,カール4世のもとでつくられたゴシック様式のカレル橋である。カレル橋を渡りブルタバ川右岸に広がる小区域がスタレー・ムニェストで,プラハの最も古い部分であり,旧市街広場に面して建つゴシック様式の市庁舎,ティン教会などはいずれも14~15世紀のものである。小説家カフカの生まれたユダヤ人街(19世紀後半よりヨゼホフと改名)は旧市街広場とブルタバ川の間にあり,プラハを占領したヒトラーが〈かつて地上にあったユダヤ人〉を記念するための博物館をつくる計画をもっていたため,ここのシナゴーグは破壊を免れた。町は旧市街から南東に延びる帯状のバーツラフ広場(旧馬市広場)を中心に繁華街ができ,各種商店,デパート,博物館,劇場,大学のほか,歴史的記念物などもほとんど旧市街地域に集中している。
プラハはチェコの行政,官庁の中心であり,また文化的中心地としての諸機関も集中している。中欧最古のカレル大学をはじめとして〈11月17日〉大学,工業大学,芸術アカデミー,チェコ科学アカデミー,数多くの研究所,博物館,図書館,天文台がある。さらに19世紀のチェコ民族運動の成果である1862年創設の民族劇場のほか,市内には20以上の常設劇場がある。
執筆者:稲野 強
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
チェコ共和国の首都。同国最大の都市で政治、経済、文化、交通の一大中心地。英語名プラーグPrague。中央ボヘミア地方の中心でもあり、1993年1月にチェコとスロバキアに分離するまではチェコスロバキアの首都。人口117万8576(2001)。ラベ(ドイツ語名エルベ)川の支流ブルタバ(ドイツ語名モルダウ)川が市の中心を貫流し、起伏の多い丘陵地によって盆地が形成されている。気候は大陸性で、年平均気温8.0℃、1月は零下1.7℃、7月は17.6℃。年降水量は502.3ミリメートルと乾燥している。プラハは、ブルタバ川左岸の丘陵地フラッチャニ(プラハ城区域)とマラー・ストラナ(小市区)、右岸のスタレー・ムニェスト(旧市街)、ヨゼホフ(ユダヤ人街)、ノベー・ムニェスト(新市街)という1888年まで市壁に囲まれた区域を中心に、その後、膨張して市域に編入された郊外からなる。
[稲野 強]
プラハはこの国の商工業の中核をなしている。ことに工業地帯として重要で、国全体の約11%の工業生産量を誇り、機関車、自動車、電気工学機器などの機械製造、化学、繊維、印刷業のほか、食品工業ではこの国最大の集中度を示し、ビールなどの醸造、食肉加工、製粉業、さらに冷凍食品業が盛んである。また1989年の体制変革以降とくに目覚ましいのは観光・サービス業である。国内外の私企業によって繁華街、ホテルなどの改造、新築、また市の景観の整備が急速に進められ、中世的な町並み、歴史的建造物などの文化施設を訪れる外国人観光客の増加に対応している。交通では、プラハは道路網、鉄道網の拠点であり、放射線状に走る幹線道路と鉄道は、ウィーン、ベルリン、ブラチスラバ、ブダペストなど中欧の重要都市との間を結ぶ。一方、河川交通も盛んで、ブルタバ川に面した河港では700トン級の船の出入が可能である。また、市の中心部から約11キロメートル西方にはルジニェ国際空港があり、市内には1974年に地下鉄が開通し、郊外に広く延びている。
[稲野 強]
今日のプラハの基礎は神聖ローマ帝国の帝都であり、「黄金のプラハ」の名をほしいままにした14世紀なかばに築かれた。14世紀の後期ゴシック様式の建造物と、15~18世紀のルネサンス、バロック、ロココ、各様式の建造物が市の中心の至る所でみられ、「百塔の町」「北のローマ」と賛美されるのにふさわしい景観を示している。この歴史的地域は1992年に世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録された。歴史的建造物には、14世紀にほぼ完成し、左岸のフラッチャニにそびえたつバロック式宮殿のプラハ城がまず目をひかれる。さらにブルタバ川に架かる14世紀の石橋カレル橋、やはり14世紀建造の旧市庁舎、ティーン教会、ワルトシュテイン宮殿、聖ビート大聖堂、聖ミクラーシュ教会、ストラホフ修道院などみるべきものが数多くある。また、小説家カフカが生まれたユダヤ人街(19世紀後半よりヨゼホフと改名された)には、ナチス・ドイツ占領下でも破壊を免れたシナゴーグ(会堂)がある。教育・文化施設には中欧最古のプラハ(正称カレル)大学(1348)をはじめ各種大学、研究機関や国立博物館、チェコ民族運動の成果である国民劇場(1862)など多数の常設劇場があり、さらに世界有数のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の根拠地にふさわしく、スメタナ・ホール、ドボルザーク・ホールなどの音楽ホールや伝統的な人形劇場なども充実している。新市街にはプラハ市民の集まる場所として有名なバーツラフ広場がある。
[稲野 強]
紀元前5世紀ごろからケルト系のボイイ人がこの地域に居住していたが、6世紀ごろには西スラブ人が定住した。8~9世紀にはプラハ城の基礎がつくられ、南方に城砦(じょうさい)ビシェフラトが築かれた。10世紀に出たチェコ人の民族王朝プシェミスル家は国家の中心をプラハに置き、キリスト教の普及に努め、973年には司教座を置いた。ドイツ人、ラテン民族、ユダヤ人商人によって西欧と東欧の通商路となり、14世紀にはヨーロッパの経済、政治、文化の中心地に発展して人口は4万人を数えた。ことに、1346年ボヘミア(チェコ)王となったルクセンブルク家のカレル1世(神聖ローマ=ドイツ皇帝カール4世)はプラハを帝国の首都と定め、中欧最初の大学(プラハ大学)を建て(1348)、ペトラルカなどのイタリア・ルネサンスの文人を招き、中欧のルネサンスを招来した。さらに大司教座を置き、新しい市街区を設けるなど、今日のプラハの基礎をつくった。1618年に始まる三十年戦争はプラハで勃発(ぼっぱつ)した。ボヘミアの封建貴族はオーストリア・ハプスブルク家の中央集権化に反対し、新国王にプファルツ伯を擁して挙兵したが、プラハ近郊のビーラー・ホラ(白山)Bílá hora(ドイツ語名ワイセルベルクWeißenberg)の戦いでたちまち敗れた。三十年戦争期間中、この町は各国の軍隊に蹂躙(じゅうりん)されるところとなり、政治的重要性を失い、17世紀なかば以降はドイツ化された一地方都市に衰微した。18世紀に入るとハプスブルク家の経済政策のもとで活況を呈し、マニュファクチュアがおこり、人口は8万に達した。19世紀にはスラブ民族運動の中心の一つになり、1848年革命期にはスラブ民族会議が開かれた。当時住民の3分の2はドイツ人であったが、19世紀後半はオーストリア帝国内でもっとも工業の発達した都市の一つであり、民族資本の力を背景にチェコ人市民層も徐々に勢力を増すとともに、労働運動、反ドイツ民族運動の中心となった。1918年10月28日、この地でチェコスロバキア共和国の創立が宣言され、首都となった。39年にプラハはドイツ軍によって占領され、45年に旧ソ連軍に解放されるまで続いた。68年にいわゆる「プラハの春」という自由化運動がこの地から生まれた。その後、69年に成立したチェコスロバキア社会主義連邦共和国内のチェコ社会主義共和国の首都として再出発した。89年に「東欧革命」が勃発し、脱社会主義体制化が図られたが、政治変革を推進する大衆運動はまずプラハで組織・拡大され、各地に波及した。93年1月1日にチェコとスロバキアが分離・独立を果たし、2国が誕生した結果、プラハはチェコ共和国の首都となった。
[稲野 強]
『平田達治・平野嘉彦編『プラハ・ヤヌスの相貌』(1986・国書刊行会)』▽『ロバート・J・W・エヴァンズ著・中野春夫訳『魔術の帝国――ルドルフ二世とその世界』(1988・平凡社)』▽『ヴラスタ・チハーコヴァー著『プラハ幻影――東欧古都物語』(1993・新宿書房)』▽『薩摩秀登著『プラハの異端者たち』(1998・現代書館)』▽『南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』(1999・山川出版社)』
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チェコ共和国の首都。エルベ川の支流ヴルタヴァ(モルダウ)川に臨む。古来河川交通の要衝として西スラヴ系チェコ人が居住。プシェミスル朝のもとで,ボヘミア王国の首都となり,1257年には自治権を得た。14世紀にはルクセンブルク朝のカール4世のもとで神聖ローマ帝国の首都になり,ドイツ圏の政治・経済・文化の中心として飛躍的に発達し,「黄金のプラハ」と称せられた。その後ハプスブルク家支配下でもボヘミア王国の首都であり続け,19世紀には工業都市化し,1918年から92年まではチェコスロヴァキアの,93年からはチェコの首都となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 KNT近畿日本ツーリスト(株)世界遺産情報について 情報
…事実,この概念の成立を裏づけるように,この時期には年代が確定されても,制作地の推定が困難な作品が多数存在している。 国際的交流は,1320年代すでにジョットにはじまるイタリア絵画の革新の影響として,空間の存在を暗示する立体感や遠近感表現の画面への導入や,感情表現に示される人間解釈の深化がアルプス以北の作品に散見されることから立証されているが,14世紀中葉,教皇の都アビニョンと皇帝の都プラハでの造営事業を通じて本格化する。アビニョンに集まった工人の出身地は多彩であるが,S.マルティーニ,ジョバネッティMatteo Giovanetti(生没年不詳)などシエナ派の画家が招かれ教皇庁壁画,祭壇画,写本挿絵制作などに活躍し,アビニョンを中継地としてシエナ派の影響が国際的に波及した。…
※「プラハ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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