パラツキー
František Palacký
生没年:1798-1876
モラビア生れのチェコ人歴史家,政治家。ブラティスラバの神学校で牧師,詩人を志したが,チェコ民族覚醒運動にめざめ,プラハに行き,言語学者ドブロフスキーの勧めで,貴族の古文書館で働く。1831年,文化団体〈マティツェ・チェスカーMatice česká〉の創設に尽力した。36年には主著《ボヘミア・モラビア民族史》(ドイツ語版)第1巻を刊行(1867年全5巻完結。チェコ語版1848-76)。39年にはボヘミア議会の歴史編纂官に任命される。
48年革命のさなかの4月,フランクフルト国民議会準備委員会あてに,パン・スラブ主義を批判しつつ,チェコ人の独自性,西スラブ人にとってのオーストリア帝国の重要性を説いた書簡を送り,政治活動に入った。6月にはプラハで開催された初めてのスラブ人会議の議長を務め,オーストリア帝国内スラブ人の団結を主張した。初めて開かれた帝国議会議員に7月の選挙で選ばれ,10月には憲法草案を執筆し,翌49年初めのクレムジール国会に提出。オーストリア帝国を諸民族の自由・平等に基づく連邦制に改組する,いわゆるオーストリア・スラブ主義を主張し続けた。
革命は反革命勢力が勝利し,彼は52年まで政府により政治活動の停止を命ぜられ,著作に専念する。女婿のリーゲルらと〈老チェコ党〉の結成に加わり,議会におけるチェコ人勢力の進出に尽力した。67年オーストリア政府がハンガリーとの間に二重王国制(オーストリア・ハンガリー二重帝国)を成立させると,その反対運動の先頭に立ち,同年モスクワで開かれたスラブ会議に参加し,パン・スラブ主義への傾斜を示した。
執筆者:稲野 強
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パラツキー
ぱらつきー
František Palacký
(1798―1876)
モラビア生まれのチェコ人歴史家、政治家。「民族の父」と称される。ポジョニ(プレスブルク、現ブラチスラバ)の福音(ふくいん)派学校で学んだが、チェコ民族再生運動に目覚め、プラハに行き、貴族の古文書館の職を得る。その後、身分制議会の歴史編纂(へんさん)官に任命され、大著『チェコ民族史』Dějiny národu českého v Če chách a v Moravě(1848~76)(ドイツ語版Geschichte von Böhmen 1836~67)を書く。オーストリア帝国を諸民族の連邦制に改組するオーストリア・スラブ主義者の推進者として、1848年にプラハで開催されたスラブ民族会議の議長となる。だが、オーストリア政府がスラブ人の平等・自治の要求を無視してハンガリーとの間で二重王国制をとる(1867)と、ロシアの汎(はん)スラブ主義に傾斜した。
[稲野 強]
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パラツキー
František Palacký
1798~1876
チェコの歴史家,政治家。モラヴィア生まれ。1848年の革命期にはオーストリア政府擁護の立場からフランクフルト国民議会の招待を断わり,プラハで第1回スラヴ民族会議を主催した。同年第1回オーストリア帝国議会の議員に選出され,帝国の連邦化をめざした憲法草案を起草したが,欽定憲法発布により無効。60年代には老チェコ党の創設に参加した。主著にチェコ民族史観を確立した『ボヘミア・モラヴィア史』5巻(ドイツ語版:1836~67年,チェコ語版:1848~76年)がある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
パラツキー
Palacký, František
[生]1798.6.14. モラビア,ホドスラビツェ
[没]1876.5.26. プラハ
旧オーストリア領ボヘミアのチェコ民族運動指導者。スラブ民族主義の立場から,三月革命の際,フランクフルト国民議会を故意にボイコットし,1848年6月プラハで開かれたスラブ人会議を指導。 61年以来オーストリア上院議員,ボヘミア州議会議員として,連邦主義に基づくハプスブルク帝国の改革に努めた。著作『ボヘミア史』 Geschichte Böhmens (5巻,1836~67,チェコ語版 48~76) は現代にいたるまでチェコ民族主義運動に大きな思想的影響を与えた。
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パラツキー
チェコの歴史家,政治家。1831年民族文化団体〈マチツェ・チェスカー〉の創設に尽力。《ボヘミア・モラビア民族史》5巻(1836年―1867年),《フス戦争史序説》を著してオーストリア帝国治下にあるチェコ人に民族主義と自由主義を鼓吹。1848年にプラハで開かれた初めてのスラブ人会議を指導し,議長となり,オーストリア帝国内スラブ人の団結を主張。後半生は政界で活躍した。
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パラツキー
František Palacký
1798〜1876
モラヴィア生まれのチェコの歴史家・哲学者・政治家
1848年の革命に際してはプラハでスラヴ民族会議の議長をつとめ,ハプスブルク家領内におけるスラヴ人の団結を主張して,民族の自由と平等を唱えた。1860年代にはオーストリアの国会議員にもなり,詩論・美学・歴史などの著作を残した。主著『ボヘミアとモラヴィアにおけるチェコ民族史』。
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パラッキー
生年月日:1798年6月14日
チェコスロバキア,チェコの歴史家,政治家
1876年没
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世界大百科事典(旧版)内のパラツキーの言及
【インド美術】より
… 中世に入ると仏教の衰退にともなって,その彫刻もしだいに力を失い形式化したものが多くなる。8世紀以後は,パーラ朝支配下の東インドに限られ,ナーランダー,ボードガヤー,ラトナギリなどで最後の華をさかせた。なおこの時期にブロンズ彫刻が隆盛したことは特筆に値する。…
【仏像】より
… グプタ朝時代以後は仏教の衰退とともに表現もしだいに形式化し,力の充実した作品は少なくなる。しかしパーラ朝時代には密教が隆盛し,多面多臂像や忿怒像が生まれ,尊像の種類が格段に増加した。それにともなって図像が整備され,造像法が定式化した。…
※「パラツキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」