パラツキー(読み)ぱらつきー(英語表記)František Palacký

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パラツキー」の意味・わかりやすい解説

パラツキー
ぱらつきー
František Palacký
(1798―1876)

モラビア生まれのチェコ人歴史家、政治家。「民族の父」と称される。ポジョニプレスブルク、現ブラチスラバ)の福音(ふくいん)派学校で学んだが、チェコ民族再生運動に目覚め、プラハに行き、貴族の古文書館の職を得る。その後、身分制議会の歴史編纂(へんさん)官に任命され、大著『チェコ民族史』Dějiny národu českého v Če chách a v Moravě(1848~76)(ドイツ語版Geschichte von Böhmen 1836~67)を書く。オーストリア帝国を諸民族の連邦制に改組するオーストリア・スラブ主義者の推進者として、1848年にプラハで開催されたスラブ民族会議の議長となる。だが、オーストリア政府がスラブ人の平等・自治の要求を無視してハンガリーとの間で二重王国制をとる(1867)と、ロシアの汎(はん)スラブ主義に傾斜した。

[稲野 強]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パラツキー」の意味・わかりやすい解説

パラツキー
Palacký, František

[生]1798.6.14. モラビア,ホドスラビツェ
[没]1876.5.26. プラハ
旧オーストリア領ボヘミアのチェコ民族運動指導者。スラブ民族主義の立場から,三月革命の際,フランクフルト国民議会故意にボイコットし,1848年6月プラハで開かれたスラブ人会議を指導。 61年以来オーストリア上院議員,ボヘミア州議会議員として,連邦主義に基づくハプスブルク帝国改革に努めた。著作『ボヘミア史』 Geschichte Böhmens (5巻,1836~67,チェコ語版 48~76) は現代にいたるまでチェコ民族主義運動に大きな思想的影響を与えた。

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