セーケイ人 (セーケイじん)
Székely
今日のルーマニア領トランシルバニアの一部に住む独特のハンガリー系民族集団。セーケイ人の起源には諸説があり,フン族の末裔と見る説,遊牧期にハンガリー人に合流したトルコ系人種と見る説などがあるが,言語,風俗等から,ハンガリー人のパンノニア定住の後,10~13世紀の間に,辺境防衛のためにトランシルバニアへ入植したハンガリー人と思われる。辺境にあったため,久しく部族的特徴を保持し,農耕への移行も遅れていた。しだいに封建的諸関係も生成しはじめた16世紀から,トランシルバニアをめぐる国際関係と民族対立に巻きこまれた。とくに同地のハンガリー人地主がルーマニアの民族的要求を抑えるためにセーケイ人を利用した。第2次大戦後ルーマニアの中で自治的な地位を保証された。ハンガリー本国ではセーケイ人の民俗に自らの過去を追懐する傾向があるが,トランシルバニアでの民族問題の再燃を恐れるルーマニアは必ずしもそれを快く思っていない。
執筆者:南塚 信吾
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
セーケイ人
セーケイじん
Székely
ハンガリー人のなかで,独自の歴史的・文化的発展をした集団。起源について定説はないが,アールパード朝期からすでにほかのハンガリー人から区別された集団であった。中世には,辺境地帯,特に東部のトランシルバニアに入植し,ハンガリー王国辺境防衛を任務とした。その見返りとして,セーケイ人全体に一括して貴族と同様の自由と特権が与えられ,自治権が認められた。 1437年にトランシルバニアで農民反乱が起きると,ハンガリー人貴族,ドイツ人都市民とともに,特権を守るために「三民族同盟」を結成した。 14世紀以降,セーケイ人内の階層分化が始り,下層セーケイ人の,支配層セーケイ人に対する反乱が起った (1465,1526) 。 1562年に集団としての特権を失い,1848年には全特権を失った。 19世紀後半,経済発展に取残され,多数のセーケイ人がモルドバ (ルーマニア) やアメリカに移住した。 1920年のトリアノン条約によりトランシルバニアがルーマニア領となったのちも,独自の文化を保持した。特に墓標や「セーケイ門」に見られる独自の木彫,民族衣装などが有名。
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世界大百科事典(旧版)内のセーケイ人の言及
【トランシルバニア】より
…しかし社会の封建化に対しては原住民の抵抗もみられ,たとえばブラフ,スラブ人のクネズcnez(軍事,司法,徴税をつかさどる地方の頭目)の制度のように,なおしばらく存続したものもあった。また外敵の防衛と経済発展のために,ハンガリー国王は外国人植民者や[セーケイ人]を利用しなければならなかった。セーケイ人は現在ではマジャール人にまったく同化されているが,その起源はトルコ系のブルガール族に属し,独自の共同体組織と慣習を維持して,王国の防人的役割を果たし,12世紀中ごろまではビホル地方にいたが遅くも13世紀には現在の居住地であるトランシルバニア東部へ移住した。…
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