翻訳|wood carving
木を素材とした彫刻,浮彫。木材は,石材,テラコッタ,ブロンズ(青銅)などとともにもっとも一般的な彫刻用素材であり,木材の産出する地域では手に入れやすいため,丸彫彫刻のみならず,建築,家具などの装飾や工芸品の素材としても多用された。ただ,木材は湿気や火に弱く,石材や金属などに比べて長期の保存に適さないという欠点をもっている。
木彫には,のみ,小刀,錐など,各種の道具類を必要とするが,石彫に比較すれば加工は容易である。しかし石理以上に木目は,彫刻に際して素材的抵抗が多い。したがって加工に際しては,この木目の性質を理解し,利用しなければならない。事実,木材を素材とすることの多い民俗彫刻や現代の木彫では,単に木の質感を利用するのみならず,木彫の技法が必然的に生み出す稜や面が効果的に用いられている。しかし,西洋で古代から17,18世紀にかけて,とくに公的,また宗教的芸術においては,木彫は彩色されるのが通常で,スタッコを塗り,その上に彩色,鍍金などがなされ,瞳などの表現には象嵌技術が用いられた。
《シェイク・エル・ベレドの像》(カイロ博物館)など数多くの木彫の遺品をもつ古代エジプトに対して,木材の産出のないメソポタミアには作例がない。フェニキアには,黒檀(こくたん)や黄楊(つげ)などの硬木に彫った小工芸品が見られ,これらは装飾工芸として古代世界に広く分布していたと思われる。ギリシアの神像は,クソアノンxoanonと名づけられる単純・素朴な木板状神像から生まれたと伝えられるが,それらの直接的関連は今日否定されている。しかし,木彫の偶像が制作されていたことは事実らしく,サモス島の水浸しになった神殿から若干の木彫が見いだされる。
中世においては,彩色木彫がきわめて多く用いられた。とくに地方に例品が多いことから見て,富裕でない教会で木彫が,装飾彫刻としてのみならず,聖母像,聖母子像,磔刑像に広く用いられたことを示している(カタルーニャの彫刻など)。一方,ゴシック期に,チェコ(ボヘミア),オーストリア,ドイツなどでも木彫は,きわめて重要な地位を占める。身廊と両側廊がほぼ同じ高さのハレンキルヘの発達が祭壇彫刻の発達を促し,祭壇の装飾だけではなく,そこに安置される単独像の発達をも促した。そのような木彫を手がけた作家にパッヒャーやリーメンシュナイダーがいる。彼らは,後期ゴシックの,深い宗教感情に支えられた写実表現を,前述の木彫の特質を生かすことによって達成した。
ルネサンス期にも,ゴシック期の伝統を受け継ぎ,ブルネレスキの《磔刑のキリスト》(フィレンツェ,サンタ・マリア・ノベラ教会)やドナテロの《マグダラのマリア》(フィレンツェ,洗礼堂)などの傑作があり,また作者不詳の美しい《婦人の胸像》(ルーブル美術館)などの例も見られる。19世紀まで木彫は,室内装飾,家具装飾などで盛んに用いられたが,近代にはモニュメンタルな作品は乏しくなる。20世紀には,アフリカの黒人彫刻の影響もあり,またタヒチで木彫を試みたゴーギャンなどの先例のもとに,モディリアニ,ブランクーシ,バルラハなどが質感そのものを生かす木彫を残している。
執筆者:中山 公男
日本の木彫は仏像を中心として遺品が数多く現存し,また技法的にも高度な発展をみた点で他の追随をゆるさない。ここでは日本を中心に,仏像彫刻について述べる。
インドでは2世紀初めころに仏像の製作が始まり,文献では初期から檀木を用いた檀像が製作されていたことが知られるが,それらインド古代の木彫仏の遺品は現存しない。中央アジアでは塑像が仏教彫刻の中心であったが,6~7世紀の製作と考えられるキジル出土の小型の木彫仏が,ドイツ国立インド美術館に伝えられている。中国では,《三宝感通録》によれば,東晋時代に彫塑家として著名な戴逵(たいき)が弥陀木像を作り,宋の泰始年間(465-471)には檀像が作られ,隋代の襄州華厳寺には高五丈の盧舎那仏木像があったという。他にも製作を伝える文献は少なくなく,中国でも早くから檀像を中心に,また他の木材を用いた大型の木彫像も作られていた。しかし,隋代までの中国木彫像の遺品は現存しない。なお日本僧奝然(ちようねん)が将来した985年(宋,雍煕2)製作の京都清凉寺釈迦如来立像のように,像の体幹部を複数の材で彫成したいわゆる寄木造の像があるが,中国の木彫は石仏,金銅仏に比較して主流ではなく,遺品も少ないために,その技法の展開には不明の点が多い。日本の木彫仏製作に先立つ朝鮮半島の木彫についてはよく知られていないが,京都広隆寺宝冠弥勒像は材がアカマツであることなどから,623年(推古31)に新羅からもたらされた像である可能性があり,朝鮮半島でもある程度木彫仏の製作が行われていたと思われる。朝鮮半島における彫像も遺品からみると,石仏や金銅仏が多い。
日本では《日本書紀》等によれば6世紀末ころに木彫仏が作られているが,遺品として最古のものは7世紀前半に製作された奈良法隆寺救世観音像(像高197cm)である。その構造は両手を含んだ頭体の大部分から,台座蓮肉下の枘(ほぞ)までをクスの1材で彫成し,像の表面は白土下地の上に金箔を押し,宝冠などは金銅製透彫のものをとりつけている。飛鳥時代から7世紀末ころにかけて,木彫像は金銅仏についで多く作られており,それらのほとんどはクス材を用いた一木造の像で,表面に金箔あるいは彩色を施して仕上げられている。なお,7世紀半ばころの製作と考えられる法隆寺百済観音像では,像の背面に大きく内刳りが施され,像の上半身の表面には木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて柔らかい肉付けを表現している。その他7世紀の木彫遺品としては法隆寺金堂四天王像,奈良中宮寺菩薩半跏像などが著名である。7世紀末から天平時代(奈良時代)8世紀半ばころまでの間,木彫像の製作は当時盛行した乾漆像,塑造等の影に隠れてほとんど知られていない。
759年(天平宝字3)に唐僧鑑真によって創立された奈良唐招提寺には,同寺の創建間もないころの製作と考えられる伝薬師如来立像ほかの,ヒノキ材製一木造の木彫群が現存している。これらの像は構造的には7世紀の木彫と同様であるが,材にその後一般的となるヒノキを用いており,またその様式に前代までのものと異なる新展開が認められる。これらの造像や,中国からの檀像の将来に見られるように,天平後期の木彫は中国彫刻の新たな影響を受けて再開されたとも考えられる。またこの時代には木彫でおおむね形を作り,これに木屎漆を盛り上げて造型した木心乾漆像も多く製作されている。
この木彫再興の気運をうけて平安時代初期には,ヒノキやカヤなど木目の通った軟質の針葉樹材を用いた一木造の像が盛んに製作され,木彫は以後の日本彫刻史を通じて造像の主流となった。8世紀末から9世紀前半ころの木彫像は,素木のままや簡単な彩色を加えるだけで,木肌の美しさや彫痕を生かして仕上げたいわゆる純粋木彫と,木心乾漆像の流れをくんだ木彫に薄く木屎漆を盛って仕上げた乾漆系木彫とに大別される。前者の代表的遺品には京都神護寺薬師如来立像,奈良新薬師寺薬師如来座像,同法華寺十一面観音立像などがあり,後者には839年(承和6)開眼の京都東寺(教王護国寺)講堂諸像,大阪府観心寺如意輪観音像などがある。両者は相互に影響しあってこの時代の木彫の展開を多彩なものにしたが,10世紀以降には乾漆系木彫から,木屎漆層を省いて布貼りに錆漆で目留めをし,その上に漆箔や彩色を施したものが,木彫像の最もていねいな仕上げ法になった。
平安時代初期の木彫にも,干割れを防ぎ,重量を軽くするために内刳りを施すことが行われていたが,10世紀後半製作の京都六波羅蜜寺地蔵菩薩座像では,頭体幹部を正中線で左右の2材を矧(は)ぎ寄せて作り,内刳りをより大きくし,また小さい材から作るためのくふうがなされている。このように像の頭体幹部を,中心となる1材からではなく,複数の材から作る技法を寄木造という。
この一木造から寄木造への移行は,木彫技法の展開上画期的なものであり,1053年(天喜1)の定朝作京都平等院阿弥陀如来座像(像高279cm)に,寄木造の完成した技法が示されている。この像は,頭体幹部を上から見たときに〈田〉の字形になるように4材を矧ぎ寄せて作り,背面の2材は頸回りで一度割り放った後に再び矧ぎ寄せている。この体幹部にやはり別材製の体側部,腰脇,両肩部,両脚部等が適宜矧ぎ寄せられる。頭体,両脚部には各部に通じる大きな内刳りが施され,材の肉は均一に薄くなっている。また同寺の雲中供養菩薩像(像高40~87cm)では,頭体幹部を1材で作り,これを縦に割り放って内刳りを施し,さらに頭部と体部を割り放し,これらを再び矧ぎ合わせるという割矧造(わりはぎづくり)の完成技法が見られる。割矧造はそれ以後,等身大程度までの像を作るときの基本的な造像技法となった。
一木造から寄木造が生まれる契機には,あるいは中国の木彫像からの影響があったかとも考えられるが,平等院像に見られるような高度に完成した技法は大陸には知られず,また割矧造は,ヒノキのような縦に割りやすい針葉樹材を用いて初めて可能な,日本独自の木彫技法といえる。これらの技法はその後近世にいたるまで,日本の木彫技法の基本として長く用いられた。
→彫刻
執筆者:副島 弘道
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
木造彫刻の略で、牙彫(げちょう)などに対する語。日本の彫刻の大部分は木彫で、材の特性をよく生かし、その種類も非常に多い。飛鳥(あすか)時代にはほとんどクスノキが用いられ、特殊なものにアカマツ(広隆寺弥勒菩薩(みろくぼさつ)像)などが用いられた。奈良時代には木彫は少ないが、平安時代に入って、木彫が主流になりヒノキがおもに用いられた。奈良時代の伎楽(ぎがく)面、平安時代の舞楽面にはキリがおもに用いられたが、これは軽さを必要としたためであろう。
近来行われる趣味的制作は、「木彫り」とよび、専門家の木彫と区別している。第二次世界大戦後、物資の破壊と不足、男手の喪失から、婦人が実用と趣味とから木彫りを試み、最近は手芸として、各地に「木彫り教室」が設けられるに至った。
[岡登貞治]
木彫りを始めるには、まず素材とする木を選ばなければならない。そのために、実用品をつくるのか、鑑賞品をつくるのか、よく考えて、木を選ぶことである。また、平面的な盆のようなものをつくるのか、立体的な立像、パイプなどのようなものを彫るのかによっても木の質が違ってくる。次に、図案を木につけるには、〔1〕直接木にデザインする方法、〔2〕型紙を使った捺染(なっせん)法、〔3〕カーボン紙を使う方法、などがある。
彫りに使う用具も、平面か立体かで、それぞれ違う刀や糸鋸(いとのこぎり)を使う。仕上げには、木の材質そのものの味を生かす一刀彫りのような素朴なものから、日光東照宮の陽明門のような極彩色のものなどに使う、ラッカー、漆、顔料、最近では夜光塗料などまである。素材にも、合板材が種々出回り、仕上げ機も研究が進み発売されている。結局、一にアイデア、二にセンス、三に技術と、一つ一つ慎重に行うことが、よい作品を生むこつである。
[秋山光男]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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