日本大百科全書(ニッポニカ) 「トランシルバニア」の意味・わかりやすい解説
トランシルバニア
とらんしるばにあ
Transylvania
ルーマニアの中央部から北西部を占める地域。歴史的には東カルパティア、南カルパティア、西カルパティア(アプセニ山脈)の各山脈に囲まれた中央の台地部をさす。広義には、西カルパティア山脈の外縁に広がるバナート地方、クリシャナ地方、マラムレシュ地方を含む。「トランシルバニア」は英語名で、ルーマニア語名アルデアルArdeal、ハンガリー語名エルデーイErdély、ドイツ語名ジーベンビュルゲンSiebenbürgen。面積10万2000平方キロメートル、総人口約759万(1997。面積、人口とも広義の範囲)。ルーマニア人のほかに、100万以上のハンガリー人が居住している。気候は大陸性であるが、年間を通じて大西洋や地中海の影響を受ける。地形的には、北部のソメシュ高原とトランシルバニア平原、中央部のトゥルナベ丘陵、西部のセカシェ高原、南部のフルティバチウ高原に分かれる。これらの縁辺部にビストリツァ、ブラショフ、シビウ、ファガラシュなどの盆地群が連なる。西カルパティア山脈の西側に広がる平原はハンガリーのプスタ平原に続く。北部ではソメシュ川の、南部ではムレシュ川の谷が交通路となり、南のルーマニア平原とは、南カルパティア山脈を深く刻むオルト川渓谷やプラホバ渓谷を通じて結ばれている。小麦、ブドウを生産し、ブタや牛の飼育も盛んである。天然ガス産出地帯でもある。おもな都市にクルージュ、ブラショフ、オラーデア、アラド、シビウなどがある。
[佐々田誠之助]
歴史
古代ローマ時代にはその属州ダキアの一部であった。ルーマニアの歴史学では、ローマの支配と文化を受け入れたダキア人が、その後も一貫してこの地方に居住したとされる。だがハンガリーの歴史学では、3世紀にゴート人に圧迫されてローマがその領域を縮小した際に、ダキア人は殺されるか、いっしょに南方へ去ったとされ、トランシルバニアへは9世紀にハンガリー人が先住者として定着したとする。1540年にハンガリー人の支配する公国となり、16世紀末にワラキア公国に、17世紀初頭にはトルコに支配されたが、1699年にハプスブルク帝国の領土に帰した。1867年にオーストリア・ハンガリー二重王国が成立するとハンガリー領に編入されたが、第一次世界大戦で二重王国が崩壊し、1918年12月に同地のルーマニア人がアルバ・ユーリアの大集会でルーマニアとの合併を決議した。第一次大戦後のパリ講和会議もそれを承認した。1940年8月のウィーン裁定により北部がハンガリーに与えられたが、第二次大戦末期にルーマニアが奪還した。さらに47年のパリ条約により、ルーマニアの領有権が認められた。両国のトランシルバニア領有権をめぐる最終決着は96年9月の善隣友好条約の締結で、国境不可侵とハンガリー人の少数民族としての権利の保証と引き換えに、ルーマニア領であることが認められた。
[木戸 蓊]