改訂新版 世界大百科事典 「ダゴベルト1世」の意味・わかりやすい解説
ダゴベルト[1世]
Dagobert I
生没年:605から610-639
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
600頃~639
フランク王。クロタール2世の長子。アウストラシア王(623年以降)。宮宰(きゅうさい)大ピピン,メッツ司教アルヌルフと提携,631年全王国を統一,メロヴィング朝の最後を飾った。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…273年にモンマルトルで殉死したドニ(使徒パウロの弟子ディオニュシウス・アレオパギタともいわれる)が,みずからの首を抱えて約10km歩き,倒れた場所に築かれたという墓をめぐって創設された。墓の周辺に形成された崇敬団に対し,まず聖ジュヌビエーブが修道院を建設し(5世紀末),ついでダゴベルト王が教会堂を再建した(7世紀初)。この教会堂はさらに8世紀末に改築され,また修道院長シュジェールSuger(1080ころ‐1151)が改築したのち,さらに13世紀にルイ9世の命を受けたピエール・ド・モントルイユPierre de Montreuil(1200ころ‐66)によって改築された。…
…クロタール2世の統一王権は,パリ勅令(614)が示すように,在地貴族からのグラーフ(伯)任命など,貴族権力への譲歩によって,安定した秩序をつくり出したが,それは王権による中央集権的なローマ的政治理念の終焉(しゆうえん)となった。 覇者の東分国貴族はクロタール2世にその子ダゴベルト1世(在位623‐638)の下王権を承認させ,そのもとに,東部国境防衛を果たしながら,みずからの利益を追求した。クロタール2世の死で(629),彼らは統一支配権掌握の機会を得たが,みずからの内部分裂とメッツからパリへの遷都によって,宮廷指導権を西分国貴族に奪われた。…
※「ダゴベルト1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新