日本大百科全書(ニッポニカ) 「アクィタニア」の意味・わかりやすい解説
アクィタニア
あくぃたにあ
Aquitania
古代ローマのガリア4属州の一つ。フランス南西部、北はポアトゥー、東はガロンヌ川、南はピレネー山脈、西はビスケー湾(フランス名ガスコーニュ湾)に囲まれた地域。ラテン語で「水の地方」を意味する。フランス名アキテーヌAquitaine。ケルト人とイベリア人が混住していたが、紀元前56年、ローマ軍に征服されてガリア4属州の一つとなった。一時、ゲルマン系の西ゴート人に占領されたが、507年フランク王クロービスがフランク王国に吸収した。781年シャルルマーニュ(カール大帝)は、フランク王国内の一邦としてアクィタニア王国を建設し、その子孫を王位につけた。しかし877年公領となり、ポアチエ伯が継承した。公領の安定期は、ギョーム4世(935―994)から、詩人としても名高いギョーム9世(1071―1127)までの時代である。1137年に唯一の公領女相続人となったアリエノール・ダキテーヌ(1122―1204)の結婚遍歴は、公領の命運を大きく変えた。フランス王ルイ7世との結婚と離婚、そして、再婚したアンジュー伯アンリ・プランタジュネがイギリス王ヘンリー2世となるに及んで、1154年この地はイギリス王領に帰属した。西南フランスをめぐる英仏の抗争(百年戦争)がここから開始されたが、結局、1453年フランス王シャルル7世のカスティヨンの戦勝とボルドーの占領をもって終わり、この地はギエンヌ地方としてフランス王国に吸収された。
[千葉治男]