フランク(読み)ふらんく(英語表記)César Franck

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランク」の意味・わかりやすい解説

フランク(Joachim Frank)
ふらんく
Joachim Frank
(1940― )

アメリカの生物物理学者。ドイツのジーゲン生まれ。1963年ドイツのフライブルク大学卒業後、1970年ミュンヘン工科大学で博士号取得。カリフォルニア工科大学バークレー校での博士研究員、ドイツのマックス・プランク研究所研究員などを経て1997年、ニューヨーク州立大学オルバニー校教授、1998年からハワーズ・ヒューズ医学研究所研究員、2008年からコロンビア大学生化学・分子生物物理学科、生物科学科教授。

 1975年以降、イギリスの分子生物学者リチャード・ヘンダーソンによって電子顕微鏡タンパク質などの生体分子を破壊することなく観察することが可能になったが、観察の対象が結晶構造などきれいに並んでいる場合に限られていた。実際の生体分子は液体中にランダムな方向に向いており、これが電子顕微鏡での観察をむずかしくしていた。この問題を数学的な手法を駆使して解決したのがフランクである。1981年、さまざまな方向から撮影された分子の画像を整理し、コンピュータで重ね合わせることで高解像度の三次元(3D)画像を得る計算プログラム(アルゴリズム)を開発した。この手法は単粒子再構成法(single particle analysis:SPA)という画像解析技術で、この成功がクライオ(極低温)電子顕微鏡開発の基盤となった。フランクは、1991年にスイスの生物物理学者デュボシェの開発した凍結法を使い、クライオ電子顕微鏡リボソームの三次元構造を解明することに成功した。解像度は40オングストローム(100万分の4ミリメートル)で低かったが、科学界には大きなインパクトとなった。その後もプログラムなどの改良を続け、現在は原子レベルの観察が可能となり、X線結晶解析に劣らないレベルに引き上げることに貢献した。

 2014年ベンジャミン・フランクリン・メダル、2017年ワイリー賞。同年「タンパク質などの生体分子の構造を高解像度でとらえるクライオ電子顕微鏡の開発」に貢献した業績で、リチャード・ヘンダーソン、ジャック・デュボシェとノーベル化学賞を共同受賞した。

[玉村 治 2018年2月16日]


フランク(James Franck)
ふらんく
James Franck
(1882―1964)

ドイツ生まれのアメリカの物理学者。ハイデルベルク大学ベルリン大学で学んだのち、1906年ベルリン大学のE・ワールブルクのもとで学位を得た。1911年からベルリン大学で物理学を教えるかたわら、G・L・ヘルツと協力して種々の気体中での自由電子のふるまいを研究し、ボーア理論に実験的確証(フランク‐ヘルツの実験)を与えることに成功。「原子への電子衝突を支配する諸法則の発見」により、ヘルツとともに1925年のノーベル物理学賞を1926年に受けた。第一次世界大戦後、カイザー・ウィルヘルム研究所(現、マックス・プランク研究所)を経て、ゲッティンゲン大学実験物理学教授となり、気体や蒸気の蛍光の研究に携わった。しかし、1933年に、ナチスに対する抗議として同大学を辞職してアメリカに渡り、ジョンズ・ホプキンズ大学シカゴ大学教授を務めた。第二次世界大戦中、シカゴ冶金(やきん)研究所化学部門主任として原爆製造(マンハッタン計画)に参加したが、1945年軍部の無警告原爆投下方針に反対するための委員会(フランク委員会)を組織し、彼の名で知られる報告書を提出したことは有名である。

[小林武信]


フランク(Andre Gunder Frank)
ふらんく
Andre Gunder Frank
(1929―2005)

ドイツ出身の経済学者。シカゴ大学で経済学を学び、アメリカ、ブラジル、メキシコ、カナダ、チリなど米州の各大学で教育・研究に従事したが、1973年チリ軍事クーデターを避けてヨーロッパに移る。ヨーロッパでは、ドイツのマックス・プランク研究所客員研究員、イギリスのイースト・アングリア大学教授を経て、1981年アムステルダム大学開発経済学教授。1998年同大学定年退職後、ふたたび北米に渡り、カナダ、アメリカの諸大学の客員教授を務めた。ラテンアメリカでの講義の過程で、正統派経済理論と第三世界の現実との格差の大きさについての意識を強め、ラテンアメリカ従属学派の諸業績をベースにして新従属理論を提唱。新従属理論の国際化に指導的役割を果たした。また、「開発と低開発は歴史的時間の先後関係にあるのではなく、低開発は開発によってつくりだされたという点で、同一コインの裏表にも例えうる共時的関係にある」という、歴史および世界経済認識の新しいパラダイムを提起して、社会科学の広範な分野での大きな国際的論争を惹(ひ)き起こした。再度の渡米後執筆した大著『リオリエント――アジア時代のグローバル・エコノミーReorient : Global Economy in the Asian Age(1998)では、近代世界システムの起源を16世紀の西ヨーロッパに求めるウォーラーステインの「世界システム論」を含むこれまでの歴史理論を、アジア史を無視したヨーロッパ中心主義史観だと批判するなど、歴史認識上の新たな問題提起を行った。

[本多健吉]

『大橋正治他訳『世界資本主義と低開発――収奪の《中枢―衛星》構造』(1976・柘植書房)』『西川潤訳『世界資本主義とラテンアメリカ――ルンペン・ブルジョワジーとルンペン的発展』(1978・岩波書店)』『工藤章訳『世界経済危機の構造』(1982・TBSブリタニカ)』『山下範久訳『リオリエント――アジア時代のグローバル・エコノミー』(2000・藤原書店)』


フランク(Il'ya Mihaylovich Frank)
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Илья Михайлович Франк/Il'ya Mihaylovich Frank
(1908―1990)

ソ連の物理学者。数学教授の息子としてレニングラード(サンクト・ペテルブルグ)に生まれる。モスクワ大学のバビロフSergei I. Vavilov(1891―1951)のもとで学び、1930年卒業。翌1931年よりソ連の国立光学研究所の上級科学研究員、1934年にソ連科学アカデミー(現、ロシア科学アカデミー)のレーベデフ物理学研究所の研究員、1941年より原子核研究室の責任者、1957年より同時に原子核連合研究所の主任を兼任した。彼の最初の研究は、光ルミネセンスと光化学であった。1934年以来、原子核反応の研究に転じ、γ(ガンマ)線による対生成(pair creation)およびγ線の測定と応用、中性子、核分裂の実験的研究をした。理論研究としてバビロフ‐チェレンコフ効果の研究を行い、その業績により、1958年、タム、チェレンコフとともにノーベル物理学賞を受賞した。

[佐藤 忠]


フランク(César Franck)
ふらんく
César Franck
(1822―1890)

フランスの作曲家、オルガン奏者。フランス語圏のべルギー人の父、ドイツ人の母をもつ。生地リエージュ(ベルギー)の音楽院に学び、9歳でソルフェージュ、11歳でピアノの各科を卒業、13歳ごろからベルギー各地でピアノ演奏会を行い、自作も発表した。1835年パリに移り、37年パリ音楽院に入学、ピアノ、オルガン、作曲などを学ぶ。42年父は息子を演奏家として活躍させようと考え、パリ音楽院からは退学を余儀なくされた。しかし、演奏家としては成功せず、父子間の関係も破綻(はたん)した。以後、教会オルガン奏者、教育者として生計をたてる一方、作曲活動にも力を注ぐようになった。58年、パリの聖クロティルド教会オルガン奏者に就任、カバイエ・コル製作の優れた大オルガンを使った即興演奏やオルガン音楽の作曲によってしだいに知られるようになる。71年には、フランスの器楽曲創作を推進しようとサン・サーンスらにより設立された国民音楽協会に協力、翌72年パリ音楽院オルガン科教授に迎えられる。70年代の後半にワーグナーの影響を受けた管弦楽曲などを作曲したのち、80年ごろから充実した独自の形式とスタイルによる作品を次々に発表、そのなかにはピアノ曲『前奏曲・コラールとフーガ』(1884)、ピアノと管弦楽のための『交響的変奏曲』(1885)、バイオリン・ソナタ(1886)、交響曲ニ短調(1886~88)、オルガン曲『三つのコラール』(1890)など、彼の代表的傑作が含まれていたが、当時はほとんどの作品が不評で、真価が認められたのは彼の死後であった。

 フランクは、オペラと演奏家の表面的な名人芸が人気を得た19世紀後半のフランスの音楽界で、それらの流行に追随するのをもっとも明確に拒んだ作曲家であった。そして、バッハをはじめとするドイツ音楽の厳密な論理的構成に比肩する形式を探究し、全曲が一つのモチーフの多彩な変化によって有機的に構築されるという独自の形式、すなわち循環形式を確立した。晩年の名作の大半がこの形式によって作曲されている。また、18世紀後半以後沈滞していたフランス・オルガン音楽の復興に努めた。彼の交響的なスケールと色彩感、充実度を備えたオルガン曲は、フランス・ロマン派オルガン音楽の出発点となるものである。フランクは教育者としても優れ、次代のフランス作曲界を担う逸材を、それぞれの個性をだいじにしつつ教育し、世に送り出してもいる。

[美山良夫]

『E・ビュアンゾ著、田辺保訳『フランク』(1971・音楽之友社)』


フランク(Robert Frank)
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Robert Frank
(1924―2019)

アメリカの写真家。スイスのチューリヒ生まれ。ファッション写真家を志し1947年に渡米、著名なアート・ディレクターのアレクセイ・ブロードビッチAlexey Brodovitch(1898―1971)の後見を受けて女性向けファッション誌『ハーパーズ・バザー』Haper's BAZAARなどの仕事を始める。しかし希望を託した新天地アメリカの現実は厳しく、さまざまな人間模様を直視するうちにファッション写真に限界を感じ、ドキュメンタリー写真の手法で人間の運命や人生の意味を問う写真家へと転身する。1955年と1956年にグッゲンハイム奨学金を受けて、全米を取材旅行し刊行した写真集『アメリカ人』The Americans(1958年パリ、1959年ニューヨークで刊行)は、従来は公正さや客観性が重視されたドキュメンタリー写真の世界に、私的な洞察力の表明という新たな次元を開き、現代芸術たる写真表現の可能性を確立した。1959年以降は個人映画も製作し、1960年代より現代芸術の諸分野に幅広い影響を及ぼす。寡作なため1980年代にはその活動がみえにくかったが、1990年代には再評価の機運が世界的に高まり、1998年ワシントンのナショナル・ギャラリーを皮切りに大規模な回顧展が世界各地で開催された。

[平木 収]

『The Americans(1959, Grove Press, New York)』


フランク(Johann Peter Frank)
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Johann Peter Frank
(1745―1821)

ドイツの医学者。近代公衆衛生学の建設者とされる。ラインラント・プファルツの小村ロータルベンに生まれ、1766年ハイデルベルク大学を卒業。以後、開業して臨床経験を積み、宮廷医などもしながら著述を行った。1779年、『完全な医事警察の体系』System einer vollständigen medizinischen Polizeiの第1巻を刊行、最終の第6巻は1817年に発刊され、その補巻3巻が1822、1825、1827年にそれぞれ刊行された。その内容は、結婚・妊娠・出産から児童福祉、衣食住と環境衛生、人口問題や病院、性病など、公衆衛生に関する広範囲な問題を扱っており、人々の健康は公的な機関によって維持されるという思想を、豊かな知識と実践経験に基づいて展開している。この著作によって名声を得た彼は、ゲッティンゲン(1784)、パビーア(1786)、ウィーン(1795)の大学教授を歴任、1804年にはロシア皇帝侍医に任ぜられた。

[大鳥蘭三郎]


フランク(Tenny Frank)
ふらんく
Tenny Frank
(1876―1939)

アメリカの古典学者、ローマ史家。1919年よりジョンズ・ホプキンズ大学教授。とくに経済史の分野で大きな業績をあげた。おもな著書として『ローマの帝国主義』(1919)、『共和政期ローマの生活と文学』(1930)、『ローマ経済史』(1929)があるが、とくに彼が編纂(へんさん)した『古代ローマ経済概観』全五巻(1933~40)は、ローマの経済史に関する主要な史料を編集したうえに、その英訳と解説を付しており、この分野の研究にとってもっとも基本的な文献の一つとなっている。

[坂口 明]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フランク」の意味・わかりやすい解説

フランク
Frank, Joachim

[生]1940.9.12. ジーゲン
ドイツ生まれのアメリカ合衆国の生化学者。1963年フライブルク大学で物理学の学士号,1967年ミュンヘン大学で修士号,1970年ミュンヘン工科大学で博士号を取得。アメリカ,ドイツ,イギリスの大学,研究所を経て,1975~98年ニューヨーク州保健局ワズワースセンター勤務,1997年ニューヨーク大学教授,2008年コロンビア大学教授。1970年代後半から 1980年代にかけて,生体環境に近い水中でさまざまな方向を向いている蛋白質電子顕微鏡画像データ多数を数学的手法で分類し,情報を重ね合わせたり,平均化したりすることで,2次元画像から高分解能で鮮明な 3次元画像を再構成する技術を考案。1981年,この技術を用いて,リボソームの構造を再現することに成功した。また一連の手順をコンピュータで行なうためのソフトウェア SPIDERを開発した。これらの技術は,蛋白質などを超低温で凍結するクライオ電子顕微鏡法で構造解析を行なううえで欠かせないものとなり,構造生物学の発展や新薬の開発に多大な貢献をした。2017年「溶液中の生体分子の構造決定を高解像度でできるクライオ電子顕微鏡の開発」により,スイスの生物物理学者ジャック・デュボシェ,イギリスの生物物理学・分子生物学者リチャード・ヘンダーソンとともにノーベル化学賞(→ノーベル賞)を受賞。

フランク
Frank, Robert

[生]1924.11.9. スイス,チューリヒ
[没]2019.9.9. カナダ,インバーネス
スイス生まれのアメリカ合衆国の写真家。22歳でプロの工業写真家となり,1940年代にはアメリカの雑誌『ハーパーズ・バザー』のファッションフォトグラファーとしてパリで成功する。1948年頃,35mmカメラの豊かな表現の可能性を探るため,アメリカ,ペルーに渡る。1955~56年にアメリカ全土を巡って写真を撮り,そのうちの 83点を写真集にまとめ,1958年にフランスで,翌 1959年に作家ジャック・ケルアックの序文を添えてアメリカで『アメリカ人』The Americansとして出版した。写真集には大胆な構図に皮肉や,ときには辛口の社会的メッセージが込められており,この作品によってフランクは 20世紀半ばにおける最も影響力のある写真家としての評価を確立した。1959年以降は活動の中心を映画制作に移し,最初の監督作品である短編映画『プル・マイ・デイジー』Pull My Daisy(1959)で,ケルアックの脚本をもとに詩人アレン・ギンズバーグや画家のラリー・リバーズを登場させた。そのほかの映像作品にローリング・ストーンズのアメリカツアーをとらえたドキュメンタリー『コックサッカー・ブルース』Cocksucker Blues(1972)がある。1970年代以降,再び写真を撮り始め数多くの写真集を発表,1994年にはワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーで大回顧展が開催された。

フランク
Frank, Andre Gunder

[生]1929.2.24. ベルリン
ドイツの経済学者。シカゴ大学で経済学を修め,1962年ブラジルへ移住,チリ大学教授 (1968~73) を経て,1973年チリの軍事クーデターで西ドイツに帰国,1981年以来アムステルダム大学教授。「中枢・衛星構造」という概念を提起して,ラテンアメリカ経済を論じた。そのなかでラテンアメリカ諸国は,資本主義世界体制のなかにとどまるかぎり,国際的・国内的な中枢・衛星という二極連鎖のなかで経済的余剰の収奪を余儀なくされる。また,その低開発の程度は収奪の度合いによって決定づけられるという仮説を展開した。このような「低開発の発展」あるいは「発展の未発達」という主張は,その後の従属論の本格的な開化をもたらすこととなった。主著『世界資本主義と低開発』 Capitalism and Underdevelopment in Latin America (1967) ,『従属的蓄積と低開発』 Dependent Accumulation and Underdevelopment (1979) 。

フランク
Franck, César Auguste Jean Guillaume Hubert

[生]1822.12.10. リエージュ
[没]1890.11.8. パリ
フランスで活躍したベルギー生れの作曲家,オルガン奏者。リエージュの音楽院で学び,1835年にパリに行き,38年にパリ音楽院に入った。 51年にサン・ジャン・サン・フランソア聖堂,58年にサント・クロチルド聖堂のオルガン奏者となり,終生その職にあった。一方,72年にはパリ音楽院でオルガンを教え,V.ダンディ,E.ショーソン,C.ボルドらの弟子を育成した。また,J.S.バッハの対位法とワーグナーの半音階的和声を基礎に,同じ主題が異なった外観をとって2つ以上の楽章に繰返されるという循環形式を確立し,その後期ロマン派的な作品で人気を得た。主作品は『ピアノ五重奏曲』 (1879) ,『交響曲ニ短調』 (88) ,『弦楽四重奏曲』 (89) ,オルガン曲『3つのコラール』 (90) など。

フランク
Franck, James

[生]1882.8.26. ハンブルク
[没]1964.5.21. ゲッティンゲン
ドイツ系アメリカの物理学者。ハイデルベルク大学で化学を,ベルリン大学で物理学を学び,1906年ベルリン大学で学位取得。ゲッティンゲン大学教授 (1920) 。 12年より G.ヘルツとともに電子衝突による原子の実験的研究を行い,フランク=ヘルツの実験に成功,原子構造が量子的なものであることを実験的に確証した (20) 。この業績によって,25年にヘルツとともにノーベル物理学賞を受賞。 33年ナチスドイツを逃れ,デンマークを経てアメリカに渡った。初めはジョンズ・ホプキンズ大学教授となったが,38年からシカゴ大学教授。第2次世界大戦中はマンハッタン計画に参加したが,日本への原爆投下には反対した。晩年は光合成に伴う諸反応に関心を向けた。

フランク
Frank, Jerome New

[生]1889.9.10. ニューヨーク
[没]1957.1.13. ニューヘーブン
アメリカの裁判官,法学者。リアリズム法学の代表者の一人。 1912年シカゴ大学卒業後弁護士を開業。会社法専門家として有名になった。 32年エール大学法学部の研究員,33年ニューディール関係の連邦機関の法律顧問を歴任したのち,証券取引委員会委員長となる。 41年から第2巡回区連邦控訴裁判所判事の職を 51年心臓病で倒れるまでつとめ,46~57年エール大学法学部事実認定講座教授を兼任。裁判の事実認定に際して,真実の発見を阻害する多くの要因があることを指摘した。主著,『法と近代精神』 Law and the Modern Mind (1930) ,『裁かれる裁判所』 Courts on Trial (49) 。

フランク
Frank, Anne

[生]1929.6.12. フランクフルトアムマイン
[没]1945.3? ベルゲン
ユダヤ人で『アンネの日記』の作者。 1933年ナチスの迫害を逃れ一家でオランダに亡命。ドイツ軍がオランダを侵略した 1942~44年,オランダ人の好意でアムステルダムの屋根裏にひそんでいたが密告によって 1944年8月4日ゲシュタポに逮捕され,ベルゲンの強制収容所で終戦の直前に姉と同じチフスで亡くなった。隠れ家での生活を多感で繊細な少女の目で書き綴った日記が戦後父親の手で発見され,1952年アメリカで出版されると人々に感銘を与え,30ヵ国語以上に翻訳されベストセラーになった。

フランク
Frank, Leonhard

[生]1882.9.4. ウュルツブルク
[没]1961.8.18. ミュンヘン
ドイツの小説家,劇作家。徹底した平和主義者として第1次世界大戦中はスイスに亡命,1933年フランスに亡命,40年アメリカへ渡る。表現主義的な小説『群盗』 Die Räuberbande (1914) 以後,社会主義的な立場から著作,戦争と恋愛を巧みにからませた小説『カールとアンナ』 Karl und Anna (27,劇化 29) ,短編集『人間は善良だ』 Der Mensch ist gut (18) ,自伝小説『心臓のある左側に』 Links,wo das Herz ist (52) など。

フランク
Frank, Il'ya Mikhailovich

[生]1908.10.23. レニングラード
[没]1990.6.22.
ソ連の物理学者。モスクワ大学を終え,レニングラード国立光学研究所に入所 (1931) 。レーベデフ物理学研究所 (34) ,モスクワ大学物理学部長 (44) ,1957年からはドブナの原子核研究室室長を兼ねる。ソ連科学アカデミー会員 (68) 。 37年 I.タムとともにチェレンコフ放射の理論を発表。 58年 P.チェレンコフ,タムとともにノーベル物理学賞受賞。ほかに,γ線,中性子線に関する研究もある。

フランク
Frank, Johann Peter

[生]1745.3.19. ビルマゼンス
[没]1821.4.24. ウィーン
ドイツの医師。近代公衆衛生学の先駆者。シュトラスブルク,ハイデルベルク両大学で学び,ゲッティンゲン,パビア,ウィーン各大学の教授,バーデン,ロンバルディなどの地方医官,ロシア皇帝アレクサンドル1世の侍医をつとめた。主著『完全な医学警察の体系』 System einer vollständigen medicinischen Polizey (1779) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報