チャーリーマニエル(英語表記)Charlie Manuel

現代外国人名録2016 「チャーリーマニエル」の解説

チャーリー マニエル
Charlie Manuel

職業・肩書
大リーグ監督

国籍
米国

生年月日
1944年1月4日

出身地
ウェストバージニア州ノースフォーク

本名
Manuel,Charles Fuqua

別名
別称=マニエル,チャック〈Manuel,Chuck〉

学歴
ペリーマックリエア高

受賞
MVP(パリーグ)〔1979年〕

経歴
1963年大リーグのツインズに入団。’74年ドジャースに移籍。メジャーで7年プレーし、通算4本塁打。’76年日本プロ野球のヤクルトに入団。’78年打率.312、39本塁打、103打点でチームの初優勝に貢献。’79年近鉄に移り、同年本塁打王(37本)を獲得してチームの初優勝に貢献、MVPに輝く。’80年にも本塁打王(48本)、打点王(129打点)の2冠に輝くが一時帰国が響いて解雇され、’81年古巣ヤクルトに復帰。同年引退。日本での通算成績は、実働6年で2127打数644安打、189本塁打、491打点、打率.303。MVP1回、本塁打王2回、打点王1回。日本では優勝請負人として活躍し、“赤鬼”の愛称で親しまれた。帰国後、ツインズのスカウト、’83年マイナーリーグの監督を歴任、’94年メジャーのインディアンス打撃コーチに就任マニー・ラミレスやジム・トーミなどを育てる。2000年同監督に昇格、初めてメジャー監督に。2001年チームを地区優勝に導くも、2002年7月シーズン途中に退任。2003年フィリーズ特別補佐を経て、2005年フィリーズ監督となり、2007年から地区5連覇、2008年には28年ぶりの世界一に導いた。2009年、2年連続でワールドシリーズに出場するも、ヤンキースに2勝4敗で敗れた。2013年8月12日の対ブレーブス戦で監督通算1000勝を達成したが、成績低迷のため、同月17日解任される。2014年1月フィリーズのゼネラルマネージャー(GM)相談役に迎えられた。

出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報

最新 世界スポーツ人名事典 「チャーリーマニエル」の解説

チャーリー マニエル
Charlie Manuel
大リーグ

大リーグ監督
生年月日:1944年1月4日
国籍:米国
出身地:ウエストバージニア州ノースフォーク
別名等:本名=Charles Fuqua Manuel
学歴:ペリーマックリエア高
受賞歴:MVP(パリーグ)〔1979年〕
経歴:1963年大リーグのツインズに入団。’74年ドジャースに移籍。メジャーで7年プレーし、通算4本塁打。’76年日本プロ野球のヤクルトに入団。’78年打率.312、39本塁打、103打点でチームの初優勝に貢献。’79年近鉄に移り、同年本塁打王(37本)を獲得してチームの初優勝に貢献、MVPに輝く。’80年にも本塁打王(48本)、打点王(129打点)の2冠に輝くが一時帰国が響いて解雇され、’81年古巣ヤクルトに復帰。同年引退。日本での通算成績は、実働6年で2127打数644安打、189本塁打、491打点、打率.303。MVP1回、本塁打王2回、打点王1回。日本では優勝請負人として活躍し、“赤鬼”の愛称で親しまれた。帰国後、ツインズのスカウト、’83年マイナーリーグの監督を歴任、’94年メジャーのインディアンス打撃コーチに就任。マニー・ラミレスやジム・トーミなどを育てる。2000年同監督に昇格、初めてメジャー監督に。2001年チームを地区優勝に導くも、2002年7月シーズン途中に退任。2003年フィリーズ特別補佐を経て、2005年フィリーズ監督となり、2007年から地区5連覇、2008年には28年ぶりの世界一に導いた。2009年、2年連続でワールドシリーズに出場するも、ヤンキースに2勝4敗で敗れた。2013年8月12日の対ブレーブス戦で監督通算1000勝を達成したが、成績低迷のため、同月17日解任される。

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