日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
チュン・チャク‐チュン・ニー姉妹
ちゅんちゃくちゅんにーしまい / 徴側
徴貳姉妹
後漢(ごかん)の属領ベトナムで交趾(こうし)郡太守の圧政に抵抗し独立を達成した土着貴族の娘。姉妹は漢人に殺害された側(チャク)の夫の報復と、前漢の間接支配から移行した後漢の直接統治の打倒を訴えて紀元40年にハーソンビンのハットモンで蜂起(ほうき)した。反乱は雒将(らくしょう)階級を頂点とする土着勢力に支持されて、交趾、九真、日南三郡(ベトナム)と合浦郡(中国)に広がり、太守らを逃亡させてこの年に嶺南(れいなん)の65城が陥落した。姉妹は徴(チュン)姓を称して王と仰がれ、出身地のメリンに都を定めた。このため中国のベトナム支配は中断したが、後漢の光武帝は41年に茂陵(もりょう)の人、馬援(ばえん)を伏波将軍に任じ3万の軍を与えて南下させ、馬援は42年にハーバックの浪泊(ランバク)湖付近で徴王軍を破った。姉妹はメリン北方に退いて再起を図ったがハットモンで捕らえられて殺され、ベトナムはまた中国の属領となった。この事件以前をベトナムの第一北属期、以後を第二北属期といい、第二北属期の統治では在地の慣習法がやや重んぜられるようになった。古来ベトナムでは姉妹を民族英雄二徴夫人(ハイバーチュン)として崇(あが)め、その蜂起を民族運動の原点とするが、13世紀以降2人を福神とする守護神信仰が盛んとなり、今日でもハノイの郊外をはじめ各地にその祠廟(しびょう)がある。
[川本邦衛]