光武帝(読み)コウブテイ(英語表記)Guāng wǔ dì

デジタル大辞泉 「光武帝」の意味・読み・例文・類語

こうぶ‐てい〔クワウブ‐〕【光武帝】

りゅうしゅう(劉秀)

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精選版 日本国語大辞典 「光武帝」の意味・読み・例文・類語

こうぶ‐ていクヮウブ‥【光武帝】

  1. 中国、後漢の初代皇帝(在位二五‐五七)。姓名、劉秀。字(あざな)は文叔。廟号(びょうごう)世祖。舂陵に挙兵し、王莽(おうもう)の軍を撃破して、洛陽で即位。漢王朝を再興。中央集権化をはかり、儒教尊重主義の立場をとった。(前六‐後五七

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改訂新版 世界大百科事典 「光武帝」の意味・わかりやすい解説

光武帝 (こうぶてい)
Guāng wǔ dì
生没年:前6-後57

中国,後初代皇帝劉秀。在位25-57年。廟号は世祖。王莽おうもう)に奪された漢朝を再興した。高祖劉邦の9世の子孫である。景帝の子長沙定王発から派出し,封地の南陽郡蔡陽県白水郷(現,湖北省棗陽(そうよう)県)に土着し豪族化した。王莽末期に緑林の乱,赤眉の乱などが起こると,長兄の劉演と族兄の劉玄とともに南陽の豪族と連合して挙兵し(22),新市の緑林と平林の兵と同盟して勢力を振るった。劉玄を立てて更始帝となし,改元して更始元年(23)とした。みずからは更始帝の将軍として活躍し,昆陽の戦において王莽の大軍に決定的打撃をあたえた。王莽が三輔の豪傑によって誅殺されると,更始帝に伴って洛陽に至り,ついで長安に遷都した。ただちに王莽の旧政を除き,前漢の官制を復活する施策をとった。いっぽう邯鄲による王郎を攻略し,さらに銅馬,大肜(だいゆう)等の賊衆を平定し,後漢王朝の基礎を固めていった。ついに25年,劉秀みずから皇帝に即位し,建武と改元し洛陽を国都と定めた。長安に都した前漢(西漢)に対して東漢といわれるゆえんである。翌年に洛陽に高廟と社稷(しやしよく)を立て,郊兆(祧廟)を設け,王朝の五行の配当を火徳とし色は赤を尚(たつと)び,王朝の形式を整えた。これは,王莽に奪された前漢が火徳の王朝にあたっていたことから,その再建を正統づける意味をもっていたのである。

 しかし国内はいまなお収まらず,赤眉の乱のほか,睢陽(すいよう)に劉永,巴蜀に公孫述,楚地に秦豊,隴西(ろうせい)に隗囂(かいごう),河西に竇融(とうゆう),山西に廬芳が割拠していた。あるいは親征し,あるいは諸将を派遣して37年にほぼ天下を平定した。これら諸将功臣はのちに二十八将または三十二功臣と呼ばれ,13人までが同郷の南陽の豪族の出身である。陰氏,馬氏,鄧氏など南陽の豪族は後漢を通じて外戚を形成した。ために後漢王朝は豪族の連合政権とみなしうる。ところで光武帝は,20歳ころに長安に遊学して《書経》を学び儒教の教養を身につけていたが,樊準(はんじゆん),鄧禹ら諸将の内にも儒学に精通しているものが多かった。このため太学を洛陽に興し,明堂,霊台,辟雍を建て,あるいは孔子の後裔を封建するなど儒教を奨励し,後漢の礼教主義による政治体制の基礎を築いた。官制面では,尚書を整備し,三公を抑えて尚書台に権限を移行させ,親政に努めた。かくて後漢王朝は光武帝によって創始され,約200年にわたる命数をたもった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「光武帝」の意味・わかりやすい解説

光武帝
こうぶてい
(前6―後57)

中国、王莽(おうもう)の新朝を倒して後漢(ごかん)王朝を創始した初代皇帝(在位25~57)。姓名は劉秀(りゅうしゅう)。字(あざな)は文叔(ぶんしゅく)。廟号(びょうごう)は世祖。父は劉欽(りゅうきん)、母は豪族樊(はん)氏の出である。南陽郡蔡陽(さいよう)県(湖北省)に居住していた。祖先をたどると前漢の景帝に行き着く。父の曽祖(そうそ)にあたる劉賈(りゅうか)は舂陵(しょうりょう)侯として零陵(れいりょう)郡(広西チワン族自治区)内に封邑(ほうゆう)をもっていた。劉秀は漢朝とかかわりがあるので、地方人士のかねてから注目するところであった。若いころ長安で学問を習ったが、漢末の混乱時にあって郷里に帰り、農業や商業に従事していた。王莽の失政が極に達した際、かねて気脈を通じていた在地豪族層に呼びかけて新朝打倒の挙兵をした。23年昆陽(こんよう)の戦いで勝利を収め、以後、銅馬(どうば)などの農民軍を麾下(きか)に編入し、河北、山東一帯を支配した。そして25年洛陽(らくよう)において皇帝位についたが、四川(しせん)地方など辺地に割拠する諸雄を傘下に収めるにはなお数年かかっている。後漢政権を発足するにあたって諸将に与えていた将軍号を返還させ、軍事権を皇帝の下に集約した。かわりに列侯の爵(しゃく)を与えて封土をもたせ、小規模多数の封邑体制をつくった。こうして、前漢の郡県制を踏襲しつつ、しかも分邑封建の措置をとった。在地豪族を官僚制に吸収して分権の効果を減じようと試みる方法である。

 思想の面でもこの集権と分権とを統合しようとする動きがある。光武帝は天命に基礎を置く図讖(としん)を尊び、しかもこれを儒家の礼に反しない経典として公認させているのである。このことは皇帝権の絶対性を呪術(じゅじゅつ)的非合理性において認めるというのでなく、儒教的合理性のもとにおいて肯定するという意味をもつ。皇帝権力と在地豪族勢力が前漢代の矛盾をそれなりに解決した解答が、この後漢王朝の体制と思想であったと思われる。後漢は前漢と比べて安定しており、在地豪族が地域の核として小規模の農業、商業を支えていた。国民皆兵制も廃されて、儒家的文治といわれる社会が到来した。その創設者として光武帝の役割は大きい。

[好並隆司]


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百科事典マイペディア 「光武帝」の意味・わかりやすい解説

光武帝【こうぶてい】

中国,後漢()の初代皇帝(在位25年―57年)。漢室(劉氏)の出身,名は秀。22年挙兵,23年王莽(おうもう)を滅ぼし,25年帝位について漢朝を復興。洛陽に都し,36年天下を統一。礼教に基づく統治方針を確立。
→関連項目邯鄲遺跡漢委奴国王印三省尚書省赤眉の乱奴国

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「光武帝」の意味・わかりやすい解説

光武帝[後漢]
こうぶてい[ごかん]
Guangwu-di; Kuang-wu-ti

[生]建平1(前6)
[没]中元2(後57)
中国,後漢初代の皇帝 (在位 25~57) 。姓名は劉秀。前漢の高祖の9世の孫。劉欽の3子。南陽郡 (湖北省) 蔡陽県に土着していた豪族劉氏の一族。母の樊氏も南陽の豪族出身。王莽の末年,各地に群雄が蜂起すると,劉秀は兄劉えんとともに一族賓客を率いて挙兵 (22) 。南陽の諸勢力と連合して同族の劉玄 (更始帝) を立て,漢帝とした。翌年王莽の大軍を昆陽に破り,長安に攻め入って王莽を殺した。更始帝は都を長安に定め,劉秀を蕭王に封じた。劉秀は引続き河北を平定し,更始帝が赤眉に殺されると (→赤眉の乱 ) ,帝位につき都を洛陽に定めた (25) 。その後数年にわたって,公孫述,隗囂,竇融などの群雄や,赤眉,銅馬などの農民反乱軍を鎮定し,建武 12 (36) 年にはほぼ全国を平定。兵制の改革,墾田,戸口の整備,田租の軽減など内政の充実に努めるとともに,匈奴などの異民族鎮撫にも意を用いた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「光武帝」の解説

光武帝
こうぶてい

前6~後57.2.5

後漢初代の皇帝劉秀(在位25~57)。前漢の高祖劉邦の9世の孫。22年に反王莽(おうもう)の兵を宛(えん)県(現,河南省南陽市)にあげ,即位ののち都を洛陽に定めた。36年までにほぼ全国の群雄を平定,43年には北ベトナムを領有するなど,周辺にも勢力を広げた。44年には三韓が,47年には高句麗が楽浪(らくろう)を通じて内属,49年には南匈奴(きょうど)も臣属した。最晩年の57年には倭の奴国(なこく)も遣使し,光武帝はこれに印綬を与えた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「光武帝」の解説

光武帝
こうぶてい

前6〜後57
後漢 (ごかん) の初代皇帝,劉秀 (りゆうしゆう) (在位25〜57)
前漢の恵帝の子孫。王莽 (おうもう) の末年に豪族に推戴されて挙兵し,23年王莽軍を破り,25年に即位して27年赤眉 (せきび) の乱を鎮定,都を洛陽に定めた。豪族と協力しつつ統一を進め,内治に意を用い,儒学の礼教主義を確立した。対外的には徴 (チュン) 姉妹の反乱(ヴェトナム)を鎮圧,南匈奴を服属させ,倭の奴国の朝貢をうけた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「光武帝」の解説

光武帝
こうぶてい

前6〜後57
後漢の初代皇帝(在位25〜57)
王莽 (おうもう) を倒して漢を復興した。朝貢した奴国の王に金印を与えたことで有名。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「光武帝」の解説

光武帝(こうぶてい)

劉秀(りゅうしゅう)

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世界大百科事典(旧版)内の光武帝の言及

【漢】より

…前206年,劉邦は項羽より漢王に封ぜられたが,漢の名はこれに由来する。ただし漢は紀元8年に外戚の王莽(おうもう)によって帝位を奪われて一時中断したが,25年には一族の劉秀(光武帝)によって復活した。そのため王莽が簒奪する以前の漢を前漢といい,復活後の漢を後漢という。…

※「光武帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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