ベトナムの古名。交阯とも表記される。古代中国人がその南方の地を北の幽都の対句として交趾と呼んだ例は,《墨子》や《韓非子》にすでに現れる。しかし現ベトナム北部が交趾と呼ばれるのは,前漢武帝が南越を征服し9郡を置いた中に,交趾郡が置かれたのが初見である(前111)。交趾郡はその後領域に種々の変化はあっても,ほぼ唐初に交州と改められるまで存続する。その後も交趾県の名は唐末まで残る。独立後も中国はベトナムを交趾と呼び,975年ディン・ボ・リン(丁部領)を交趾郡王に封じたのをはじめ,12世紀中頃までこの称号が王または王嗣に与えられた。しかし12世紀末頃より安南国,安南国王の呼称が一般化する。一方,現在のベトナム周辺民族がベトナム人を指してキオKio(ビルマ族,北タイ),ケオKeo(ラオ族,ムオン族,トー族),ケオKeô,Kèoなどと呼ぶことが知られ,この原音は交趾の交に由来すると考えられる。また古来,ハノイはケチョKe-Choと呼ばれるが,これもベトナム人の市の意とされる。このKe-Choをマレー人はクチKuchiとなまり,さらにこれがポルトガル人によって採用され,インド南西岸の植民市コーチンCochinと区別するためにコーチシナ(交趾支那)Cochinchinaの名が起こったともいわれる。交趾については,ベトナム人の足の指の奇形から起こったとする説(足をそろえて立つと,その趾(ゆび)が交わる),あるいは象郡と同じくこの地に多い鰐魚(蛟)から採ったとする説があるが,いずれも定説となっていない。
執筆者:桜井 由躬雄
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漢の武帝が紀元前111年南越を撃って、その故地に設置した9郡の一つ。現在のベトナム北部、ソン・コイ川(紅河)のデルタとその周辺の地をさす。交趾郡の郡治は(えいろう)にあって、太守はここに駐したが、別に都尉が冷(びれい)に派遣されていた。5年後の前106年には交趾刺史(しし)部が置かれて、9郡を統治した。平帝の元始年間(1~5)交趾郡の戸数は9万2440戸、人口は74万6237人もあり、全国103郡国のなかでも大郡であって、漢代を通じ、中国と東南アジア各地間の交通、貿易の中継地として栄えた。名称の起源については、古来当地人民の足指(趾)の形態異常に由来するとの説が行われたが、近年これを「鰐魚(がくぎょ)の郷」とする解釈も行われている。
[陳 荊 和]
『陳荊和著『交趾名称考』(1952・国立台湾大学文史哲学報第一期)』
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跤趾・川内・河内とも。元来はインドシナ半島のベトナムをさす中国名の一つ。漢代の郡名に由来し,明代まで用いられた。近世日本では,ヨーロッパ人のコーチ(ン)シナの用法にひかれて,当時のベトナム中・南部(広南・クイナムとも)をしばしば交趾とよんだ。南シナ海の要衝の地で,朱印船やポルトガル船・中国船が来航し,フェイフォーなどに日本町も栄えた。
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