デジタル大辞泉
「交趾」の意味・読み・例文・類語
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コーチ【交趾】
- [ 1 ] 古く、ベトナム北部のホン(ソンコイ)川流域の地方をいう。中国、前漢の武帝が南越を平定後、久しく中国の支配下にあったが、一〇世紀末に独立し、しだいにその領域は南方に拡大して、インドシナ東海岸地方をも含めて交趾と称するようになった。日本とは天正年間(一五七三‐九二)から慶長・元和年間(一五九六‐一六二四)にかけて、御朱印船貿易による交渉があった。こうし。アンナン(安南)。
- [ 2 ] 〘 名詞 〙
- ① 「コーチやき(交趾焼)」の略。
- [初出の実例]「肱(ひぢ)近の卓子(テーブル)には青地交趾(カウチ)の鉢に植ゑたる武者立の細竹を置けり」(出典:不如帰(1898‐99)〈徳富蘆花〉上)
- ② 交趾に産する伽羅(きゃら)をいう。
- [初出の実例]「伽羅は交趾をくべて蚊ふすとし」(出典:俳諧・本朝文選(1706)三・賦類〈汶村〉)
コーチン【交趾】
- [ 1 ] ( [英語] Cochin ) インド共和国南西部、ケララ州にある港湾都市。一五〇〇年以来、カブラル、バスコ=ダ=ガマなどが来航して商館を建設し、ポルトガルの交易拠点となった。一七世紀オランダ領となり、一七九五年イギリス領となる。ココヤシ、香料、茶などを輸出。
- [ 2 ] 〘 名詞 〙 ( [英語] cochin ) 鶏の肉用品種の一つ。中国原産。羽は黄褐色が多いが白色、黒色のものもある。羽毛、脚毛が多いのが特徴で、肉は質、量ともにすぐれる。日本には明治初年ごろ輸入され、在来種との交配で名古屋コーチンなどの品種がつくられた。ヨーロッパに輸入されたとき、コーチシナ産のニワトリと誤って伝えられ、その略称に由来する。九斤(くきん)。〔舶来語便覧(1912)〕
こうしカウシ【交趾・交阯】
- [ 一 ] =コーチ(交趾)[ 一 ]
- [ 二 ] 中国、隋代から唐代にかけてハノイ付近に設置された県。のち、安南都護府の所在地となる。
- [ 三 ] ベトナムまたはその一部に対する中国人の呼称。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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交趾 (こうし)
ベトナムの古名。交阯とも表記される。古代中国人がその南方の地を北の幽都の対句として交趾と呼んだ例は,《墨子》や《韓非子》にすでに現れる。しかし現ベトナム北部が交趾と呼ばれるのは,前漢武帝が南越を征服し9郡を置いた中に,交趾郡が置かれたのが初見である(前111)。交趾郡はその後領域に種々の変化はあっても,ほぼ唐初に交州と改められるまで存続する。その後も交趾県の名は唐末まで残る。独立後も中国はベトナムを交趾と呼び,975年ディン・ボ・リン(丁部領)を交趾郡王に封じたのをはじめ,12世紀中頃までこの称号が王または王嗣に与えられた。しかし12世紀末頃より安南国,安南国王の呼称が一般化する。一方,現在のベトナム周辺民族がベトナム人を指してキオKio(ビルマ族,北タイ),ケオKeo(ラオ族,ムオン族,トー族),ケオKeô,Kèoなどと呼ぶことが知られ,この原音は交趾の交に由来すると考えられる。また古来,ハノイはケチョKe-Choと呼ばれるが,これもベトナム人の市の意とされる。このKe-Choをマレー人はクチKuchiとなまり,さらにこれがポルトガル人によって採用され,インド南西岸の植民市コーチンCochinと区別するためにコーチシナ(交趾支那)Cochinchinaの名が起こったともいわれる。交趾については,ベトナム人の足の指の奇形から起こったとする説(足をそろえて立つと,その趾(ゆび)が交わる),あるいは象郡と同じくこの地に多い鰐魚(蛟)から採ったとする説があるが,いずれも定説となっていない。
執筆者:桜井 由躬雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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交趾(こうち)
こうち
漢の武帝が紀元前111年南越を撃って、その故地に設置した9郡の一つ。現在のベトナム北部、ソン・コイ川(紅河)のデルタとその周辺の地をさす。交趾郡の郡治は
(えいろう)にあって、太守はここに駐したが、別に都尉が
冷(びれい)に派遣されていた。5年後の前106年には交趾刺史(しし)部が置かれて、9郡を統治した。平帝の元始年間(1~5)交趾郡の戸数は9万2440戸、人口は74万6237人もあり、全国103郡国のなかでも大郡であって、漢代を通じ、中国と東南アジア各地間の交通、貿易の中継地として栄えた。名称の起源については、古来当地人民の足指(趾)の形態異常に由来するとの説が行われたが、近年これを「鰐魚(がくぎょ)の郷」とする解釈も行われている。
[陳 荊 和]
『陳荊和著『交趾名称考』(1952・国立台湾大学文史哲学報第一期)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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交趾
こうし
Jiao-zhi; Giao-chi
ベトナム北部,紅河 (ホンハ。旧名ソンコイ川) 流域地方をさす地名。前漢の武帝が南越を滅ぼして設置した9郡の一つに交趾の名が初見され (前2世紀) ,その名称は初唐 (7世紀) まで続いた。初唐に交趾郡が交州と改められたが,交趾の名はなお県名として存続し唐末に及んだ。 10世紀にベトナムが安南国として独立したのちも,中国ではこの国を呼ぶのに交趾国の称を用いることがあった。名称の起源については種々の説があるが,確定していない。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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交趾
コーチ
Cochin
中世〜近世,ヴェトナム地方にあった国家
15世紀,明の支配を脱して安南国を建設。中国ではこの国を安南あるいは交趾と称したが,16世紀末には,国王鄭氏の勢力が衰え,これと対抗した阮 (げん) 氏の統治する南部地方のみをさすようになった。19世紀後半以後,メコン川下流のフランス領植民地の名称(コーチシナ)。日本とは安土桃山時代から江戸初期にかけて朱印船貿易が盛んに行われ,日本町(ツーラン,フェフォ)も建設された。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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交趾
コーチ
跤趾・川内・河内とも。元来はインドシナ半島のベトナムをさす中国名の一つ。漢代の郡名に由来し,明代まで用いられた。近世日本では,ヨーロッパ人のコーチ(ン)シナの用法にひかれて,当時のベトナム中・南部(広南・クイナムとも)をしばしば交趾とよんだ。南シナ海の要衝の地で,朱印船やポルトガル船・中国船が来航し,フェイフォーなどに日本町も栄えた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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