改訂新版 世界大百科事典 「トベーリ公国」の意味・わかりやすい解説
トベーリ公国 (トベーリこうこく)
Tverskoe knyazhestvo
13~15世紀の北東ロシアで,モスクワ公国に対抗した有力公国。都のトベーリTver’(ソ連時代はカリーニン)は,バルト海沿岸地域からノブゴロドを経てボルガ川に出る沿岸の要地で,バルト海から黒海へのいわゆる〈ワリャーギの道〉の経過点の一つであった。モスクワ公国と同様,ロシア中央部の肥沃地に位置し,外敵からも安全で,商工業,農業の適地としてキプチャク・ハーン国の支配下で急速に発展した。
北のノブゴロド国は都市共和制を採用しており,南西ロシアのガーリチ・ボルイニ公国などの諸公国も公権力の弱体化を盛り返せずにいた。トベーリとモスクワの歴代諸公は,全ロシアの宗主権を示すウラジーミル大公位をめぐり,認定権をもつキプチャク・ハーン国の宮廷で暗闘を繰り返した。1304年に大公位を獲得したトベーリ大公ミハイル(1271-1319)は,モスクワの攻略には成功しなかったが,ノブゴロドには優位を保ち,〈全ロシアの大公〉と自称した。モスクワのユーリーと争い,貢税着服とハーンの妹でモスクワ公ユーリーの后コンチャクを毒殺した罪でハーンに処刑された。その子アレクサンドル(1301-39)の時代の1327年トベーリで民衆蜂起がおこり,ハーン国から派遣されていた有力者や役人を殺害したが,タタール軍とモスクワ公イワン・カリタのために弾圧された。その後約半世紀は,タタールに対する闘いはおさまった。ハーン国と協調した次のトベーリ公ミハイル(1333-99)を経て,ボリス(1399ころ-1461)のとき,モスクワの内訌(ないこう)も手伝って一時的に勢威を取り戻した。ボリスの子ミハイル(1453-1505ころ)の時代の1485年,モスクワ大公イワン3世の包囲攻撃に屈し,併合された。文化水準は高く,建築,絵画のほか,年代記編纂の一中心地でもある。ロシア人で初めてインドに旅して旅行記《三海洋周遊記》を残したニキーチンAfanasii Nikitin(?-1472)もトベーリ公国出身である。
執筆者:田中 陽児
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報