精選版 日本国語大辞典 「絵画」の意味・読み・例文・類語
かい‐が クヮイグヮ【絵画】
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造形芸術(美術)の一分野に属し、色と線を用いて、ある形を単独に、あるいは多様な組合せで表現する平面の芸術をいう。狭義には、線を主要な表現とするデッサンや版画を含めない場合もある。
絵画の種類およびその名称はさまざまであるが、(1)形式から分けて壁画、天井画、祭壇画、細密画、絵巻、障屏(しょうへい)画など、(2)素材から分けてフレスコ画、セッコ画、テンペラ画、油絵、水彩画、パステル画、ガラス画、蝋(ろう)画、日本画、水墨画など、(3)主題から分けて宗教画(仏画、キリスト教絵画など)、神話画、歴史画、人物画(肖像画、自画像、風俗画、裸体画など)、風景画、山水画、室内画、静物画、花鳥画、建築図など、(4)表現内容から分けて装飾画、写生画、空想画、寓意(ぐうい)画、風刺画、戯画などに区別される。これらそれぞれには、地域の特性と時代の好尚を反映する発生と消長の歴史、および様式の変遷がある。
[永井信一]
東洋の絵画は、大別すると中国とインドに分けられる。中国では、ものを描く初期人類の造形行為を表した例として、西安(せいあん)半坡(はんぱ)村の半坡遺跡出土の人面魚文陶盆をあげることができる。これは黒一色で人面と魚文をあしらったもので、器物の文様とはいえ、絵画に対する素朴な人間の知恵が蔵されている。一方、殷墟(いんきょ)などで発掘された甲骨文字は文字の発生を具体的に示しているが、物体を簡略に表した象形文字は、絵画化に先行する表現形式であり、書画同源という中国独自の芸術表現の本質を、きわめて率直に提示している。
漢代から魏(ぎ)・晋(しん)になると、絵画は墳墓の装飾や副葬品として、実用的な役割を果たすようになる。それも、初めは神話・伝説や死後の世界を主題にしているが、やがて死者の生前の生活を写実風に描くようになる。1972年以降発掘された長沙馬王堆(まおうたい)1号漢墓から発見された帛画(はくが)(あらぎぬに描かれた絵)は、天界(崑崙山(こんろんざん))に昇仙する死者のようすを図示したものとされ、専門画家の筆になるものと推定されている。また、武梁(ぶりょう)氏をはじめとする漢墓の内壁にみられる画像石(石に浅い浮彫りで図像を施す)も、絵画的性格が濃いものとして注目される。
中国において、造形芸術は書と絵の二つに限られており、その伝統は長く近代まで続くが、その基盤は漢から魏・晋にかけて形成された。現在、この時代の画家で作品(唐代の模写)とその名がともに知られているのは、5世紀初頭の顧愷之(こがいし)筆と伝える『女史箴図(じょししんず)』(ロンドン・大英博物館)である。この絵巻は、それ以前の絵画の伝統を集約して洗練を加えたもので、男女の人物や風俗描写のほかに山岳など風景を描いた場面もあり、とくに遊糸画と称される描線を骨格とした繊麗優雅な画面は中国画の極致とされる。この時代の絵画の中心主題は肖像画、人物画であり、対象とする人物の精神内容を象徴的に描写する顧愷之の作画態度は、後世ながく画家たちの規範とされた。中国では仏教が伝来するまで儒教的な鑑戒主義が絵画の主流を占めていたから、肖像、人物が画材の中心となったのである。6世紀になって南斉(なんせい)の謝赫(しゃかく)が『古画品録』で画論を展開、気韻(きいん)生動、骨法用筆、応物象形、随類賦彩、経営位置、伝移模写の六法を論じて大きな影響を与えた。これは中国画の理想として長く伝えられ、現代においても普遍性をもった絵画論として生命を保っている。
南北朝時代から唐代にかけては仏教文化が栄え、西方の芸術が流入するに及んで、中国絵画は宇宙的な広がりをもつ世界へ飛躍し、絵画の様相は多様化してくる。仏教を主題にした作品が盛んに描かれる一方、自然や日常生活のなかに題材を求めたものが好んで描かれた。仏画に描かれた浄土は仏教徒の理想化された世界の表現であり、これに対して生活感情をうたいあげたものが世俗画であった。この両者は表裏一体となって画題の主軸をなし、西方的な技法も取り入れられて従来の中国絵画にみられない新作風のものが現れたが、美の規準は依然として六法の枠をはずれるものではなく、むしろ六法の理論は、西方の影響を取り入れた唐代の絵画によって具体化された感がある。この時代の絵画にみられる写実主義、理想主義、人間主義は、永泰(えいたい)公主墳墓の羨道(えんどう)壁画をはじめとする壁画の遺品、敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)など唐代の窟壁画や天井画に、その一端をしのぶことができる。西欧のルネサンスに先行したものといえる唐代絵画はやがて爛熟(らんじゅく)の極に達し、描筆、賦彩の面にも高度の表現形式を発揮し、その果てに生じたのが水墨画である。五彩を墨一色に凝集し、精巧な写実から省略した用筆へと移行するところに、中国絵画の本質をうかがわせるものがある。
インドの絵画は、古代仏教時代の仏伝や本生譚(ほんしょうたん)(釈迦の前生物語)を主題にしたものが、アジャンタ石窟などの壁画に一部残るだけであるが、宗教と現実の人間生活を入り混ぜた風俗画的要素が濃い。ヒンドゥー教がおこると絵画は彫刻に主座を譲り、絵画は神話や民間伝説の書物の挿絵として、ミニアチュール(細密画)が画界の主流を支配し、独自の絵画様式を展開するに至った。
日本の場合は、飛鳥(あすか)・奈良時代に中国から隋(ずい)・唐の様式を移入・消化し、さらに格調の高い典雅な絵画を制作した。仏画では法隆寺金堂壁画(1949焼失)、世俗画では高松塚古墳壁画の人物像のような、同時代の唐の遺品にもまさる優れた作品がみられる。そして平安時代に入ると、仏画はいっそう洗練さを増し、世俗画は大和絵(やまとえ)という日本人の感覚に適合した独自の様式をつくりだした。鎌倉時代にはこの大和絵を用いた絵巻が盛んにつくられる一方、禅宗とともに宋(そう)からもたらされた水墨画が禅林の画僧を中心に盛んになる。後者は室町時代には禅宗美術として重要視され、宋・元の伝統を超えて日本的な水墨画の制作に心をくだいた雪舟(せっしゅう)のような画僧も現れた。
安土(あづち)桃山時代になると、安土城を代表とする城郭が造営され、殿舎内部の襖(ふすま)や壁面に金碧画(きんぺきが)が描かれ、屏風絵(びょうぶえ)とともに豪華絢爛(けんらん)たる絵画が流行した。これら障屏画の作者は狩野派(かのうは)が主流を占めたが、狩野派の漢画一辺倒の作風にあきたらず、自然の細やかな情趣を表現した長谷川(はせがわ)派の活躍も注目される。江戸時代になっても画界は狩野派が勢力を独占、いたずらに伝統を踏襲するのみであったが、宗達(そうたつ)や光琳(こうりん)らのいわゆる琳派(りんぱ)が現れて新風を巻き起こした。
一方、桃山時代には長崎を中心に西洋の絵画が伝来、日本の画家のなかにもこれを学んで描く者が現れ、これを洋風画とよんでいる。円山(まるやま)四条派もその影響を受け、自然の描写に新境地を開いた。このほか浮世絵は、江戸の町人文化の勃興(ぼっこう)を背景に広まった庶民芸術であって、とくに版画作品の精緻(せいち)な技巧と卓抜な表現は、国際的にも高い評価を受けている。
このように東洋の絵画の歩みをみてくると、これを一つの概念でくくるのがむずかしいことに気づく。それは、絵画が西欧のタブローの歩みとは別の流れを形成しているからであり、人間が生きる自然、風土、また民族性なり国民性とも深い関連があるためである。
[永井信一]
今日の西洋絵画で単に絵画という場合、その概念はフランス語のタブローtableauの意味に理解されることが多い。タブローとは、形式・内容ともに完成された絵をいうので、エチュード(習作)ないしはエスキス(下絵)のようなものはこの概念に含めない。このタブローとはもともと板絵のことであり、その歴史は古代後期のミイラ肖像画にさかのぼることができる。これは、古代エジプトで縦長の板に貴人の似顔絵を描いて室内にかけ、その主が死亡するとミイラを収めた棺桶(かんおけ)の顔の部分にあてがったものである。似顔絵は死後描かれるものもあったとされている。技法としてはエンカウスティック(蝋画)が用いられた。初期キリスト教時代になると、板絵は、とりわけビザンティン文化圏でイコン(聖画像)として発達した。イコンは宗教的な信仰と儀式に深く結び付いたもので、したがって、たび重なる聖画像論争および聖画像破壊運動の対象とされ、その普及は妨げられた。後世、15世紀のロシア教会の修道士ルブリョフは、濃密な色彩と叙情に富む作品を残してわずかにイコンの命脈を保った。中世初期の絵画的表現としては、板絵よりむしろ各種の壁画および彩飾写本のほうが優位を占めた。この写本に用いられた赤い飾り文字のことを、ラテン語のミニウムminium(鉛丹)にちなんでミニアチュールminiatureとよんだのが、のちしだいに写本の小さな挿絵の意味にも用いられるようになり、やがて細密画という概念として定着した。15世紀に制作された『ベリー公のいとも豪華なる時祷書(じとうしょ)』は豪華絢爛(けんらん)とした細密画の傑作で、フランス絵画史上の至宝とされている。
12世紀になって、イタリアで板絵の復興が始められる。それは主としてアンテペンディウムantependium(祭壇の前飾り。もともとは祭壇前部の垂布(たれぬの)をいうが、板絵またはレリーフによるものもある)やレターベルretabel(祭壇後部の衝立(ついたて))として、祭壇と密接に結び付いたものであった。アルプスの北ではやや遅れて、13世紀に板絵の復興が図られる。ルネサンス期を迎えると、イタリアでは板絵よりむしろ壁画のほうが絵画の主流となるが、フランドル地方およびドイツでは、今日のタブローの概念につながる板絵が技法、素材(絵の具)、表現内容ともに飛躍的に開発された。その主要な表現形式に祭壇画があるが、なかでも木製の扉式祭壇Flügelaltarに描かれた板絵は、15、16世紀のフランドル地方およびドイツで隆盛を極めた。これは、中央の部分で観音開きになる祭壇の扉の、両翼・表裏に描かれたもので、扉はしばしば二重になったものもあり、また一翼が複数の画面にくぎられたものもある。ファン・アイク兄弟の『ガンの祭壇画』や、グリューネワルトの『イーゼンハイム祭壇画』はその傑作として知られている。そして板絵はやがて祭壇を離れ、対幅となり独立した一点のタブローとなって、歴史、宗教、人物、肖像、自画像、風景などの各主題を追求していくこととなる。15世紀のなかばを過ぎるころ、イタリアのマンテーニャ、ヤコポ・ベッリーニらによって、板と並行して、木枠に布を張ったカンバス(画布)が使われ始めた。しかし北方では16世紀になっても板がもっぱら愛好された。
当時、板絵に一般的に用いられた絵の具はテンペラで、乾くのが速く、画面がかさかさするので、樹脂、あまに油のワニスを塗って留め、輝きを保たせた。一方、油彩は、絵の具を溶く媒剤に油を用いる方法で、テンペラに比べて色彩に透明度と光沢が得られること、色を並置し、重ね合わせても混じり合わないことで大きな利点がある。画家で美術史家でもあるバザーリは、油彩の発明をファン・アイク兄弟の功績であると主張したが、今日ではこの説は否定されている。とはいえ、油彩を用いて描いたもっとも優れた最初の絵は、紛れもなく兄弟の作であって、とくに兄弟の合作であろうと推定される『ガンの祭壇画』は、その奥行のある空間構成と真に迫る対象描写によって、油彩画の特質をいかんなく発揮している。同時にこの祭壇画は、宗教的な人物や情景を描きながら、そこに後世、人物画、風景画、静物画、室内画などに分化していく近代絵画の諸要素がみごとに先取りされている。
油彩は、初めのうち、まずテンペラで下地を描いてその上にさらに油絵の具を重ねることが多かった。しかし、のちにこうした下地づくりは廃止され、画面に直接油絵の具を塗る、いわゆるプリマ描きalla primaが試みられるようになり、これが一般に普及していった。この油彩画法は15世紀のイタリアで高く評価され、アントネッロ・ダ・メッシーナは、イタリアでこの画法を用いた最初の画家として知られている。こうしてしだいに画布に油彩で描くタブローのジャンルが開拓され、これが時代とともに絵画の代表的な方法として定着してくる。
こうして成立したタブローは、ルネサンス以後の美術の主流として歴史を刻んでいくのであるが、そこでの第一義的な課題は、「世界と人間の発見」(ヤコブ・ブルックハルト)と定義されるルネサンスの理念を反映して、形象の理路整然とした把握と、その感覚的に精密な平面上での再現にあった。この課題を解決するためには二つのことがとくに重要である。第一は形象を形象として存立させている空間を正確に秩序づけることであり、第二は形象を形象として現前させている光を的確に色彩に置き換えることである。平面上における空間表現の方法は、遠近法としてすでに前5世紀のギリシアの画家アガタルコスらによって先鞭(せんべん)がつけられているが、これが理論的に考究され確立されてくるのはルネサンス期においてであった。ブルネレスキやアルベルティは遠近法の数理的構造を明らかにし、マサッチョ、ウッチェロ、レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエッロらはこれを精力的に研究して優れた成果をあげた。ドイツの画家デューラーは理論と実作によって、遠近法をアルプス以北にもたらした偉大な存在であった。17世紀バロックの時代になると、ルネサンスの新しい精神はアルプスを越えてヨーロッパ諸国に波及する。このいわば諸国民の美術の時代を迎えて、タブローはますます隆盛を極めるが、イタリアのカラバッジョ、スペインのエル・グレコおよびベラスケス、ベルギーのルーベンス、オランダのレンブラント、フランスのプーサンらは、それぞれ明暗の対比、動的な構成、色彩の純化、古典回帰などを武器としてルネサンスの絵画に修正を企てつつ、新しい空間表現をもたらした画家として記憶される。
一方、色彩表現、とくに形象の感覚的な材質描写は、ファン・アイク兄弟の衣鉢を継いでフランドル地方を中心に進められ、とくに17世紀のオランダにおいて発展した室内画、静物画、風景画では、精緻(せいち)な材質描写がほとんどトロンプ・ルイユ(だまし絵)として推し進められている。もともと裕福な商人を芸術のパトロンとするフランドル地方では、材質感の正確な描き分けは画家の技量の見せどころであり、これが光を的確に色彩に置き換えることのできる素材(油彩)の発明を促したのである。そして油彩の発明は、光に対する画家の感覚をますます鋭敏なものにしていったということができる。絶対王制の時代からフランス大革命を経てナポレオンの時代に至る絵画は、その前半がロココ調の雅宴画、後半が古典主義絵画と相反する理念を反映しているが、古典主義と対立したロマン派の絵画をも含めて、歴史画や寓意画を主流とするいわゆるグラン・パンチュール(大絵画)の時代であった。18世紀フランスのシャルダンは、この時代にあってフランドル絵画の伝統に学んだ単純な静物画によって名をなした画家であるが、彼は、物が単一の光の反映によって孤立して存在しているのではなく、物と物との間の光の交流によって相互に依存しあって成り立っていることを発見した先覚者であった。
[野村太郎]
シャルダンの実作上のこの発見は、ロマン派に続いて写実主義を唱えたクールベ、大絵画を大胆に否定して自然光に注目したマネを媒介として、やがて印象派美学の中心をなす外光への認識を促すこととなる。とくに「画家は目だ」とするモネは、「自然界の物理的な自我」(ヘルムホルツ)である光が網膜に及ぼす印象を余すところなく色彩に置き換えることを描画の目的とした。リアリズムの究極に迫るといわれる印象派は、こうしてルネサンス以来の絵画が目ざした課題の一つの頂点に上り詰めたということができる。
印象派以後、今日に至るまでの絵画は、以上に述べた従来の絵画に対する批判、修正、克服の足跡を多かれ少なかれ刻んでいる。ベル・エポックのパリで学んだ北欧の画家ムンクは、「もはや読書する男たちや編物をする女たちのいる室内画を描くべきではない。感じ、悩み、愛する、生きた人間を描かねばならない」と決意し、従来の視覚芸術では取り上げることのなかった死とエロスのような内面世界を表現することによって、後続の世代に大きな影響力をもった。彼が内面的なテーマの設定にあたって、一点一点の作品にタブローとしての完結性を求めると同時に、それらを一連の「生のフリーズ(帯状装飾)」としてまとめようとする意図をもっていたことも注目される。ムンクを先達としてドイツでは、20世紀の初頭、反リアリズムの立場にたつ表現主義の運動がきわめて活発に展開された。
印象派美学の修正の立場にたつゴーギャンの感化を受けた画家モーリス・ドニは、「絵画とは、軍馬や裸婦やその他なにがそこに描かれているにせよ、ある秩序によって統(す)べられた色彩に覆われた一枚の平面である」と定義して、改めて絵画の平面性を確認するとともに、その平面の自律性について注目すべき問題提起を行った。絵画は、主題よりもなによりも、画家が主体性をもって配置配合した色彩と形態について、まず見るべきだということである。ドニの定義は、セザンヌからキュビスムへと発展する理念のなかで、さらに徹底化が図られている。もともと遠近法は、単一の視点から見た外界の体系化にすぎないのであって、それによって平面上にもたらされるのは空間のイリュージョンにほかならない。そのようにして描かれたタブローは、いわば壁にあけられた単なる穴、第二の窓にも等しいものである。絵画が基本的に平面であるとすれば、その平面を錯視によって立体的に見せるのではなく、逆に立体を主体的に平面に還元する新たな方法が考案されてしかるべきである。この方法は、印象派が行ったように光の印象を他律的に色彩に置き換えることによっては達成されない。むしろ対象に対する画家の複眼的な観察から得られた色彩形態を、画家の感性と造形の論理に照らして画面に再構成するのが問題である。この認識にたつキュビストは、対象の分析と再構成による自律的な表現世界をタブローに求めた。
ところで、従来の美術史では、たとえばボッシュ、ブリューゲル、ゴヤ、ルドン、アンソールなどの幻想表現は、大絵画時代のシャルダンのように、歴史の王道を外れた例外とみなされがちであった。しかしこのような幻想表現がけっして特殊ではなく、万人が意識下の世界に抑圧している願望や欲望の白昼夢であるとして、この意識下のイメージの宝庫を探ろうというのがシュルレアリスムである。ここには従来の絵画の手法を踏襲しているかにみえるものもある。たとえばダリやマグリットのトロンプ・ルイユである。しかし彼らはそれによって従来とは逆に非合理世界を開扉しようとしている。「芸術的な目的に使われる限り、すべての素材は平等だ」として各種の混合技法を用いたのはクレーであるが、ダダおよびシュルレアリスムでは従来のタブローの概念にない素材を、しかも反芸術的に用いている。抽象絵画の立場では、タブローの完結性が疑われている。絵画は首尾一貫した表現世界を一方的に見る者に与えるのではなく、見る者を未知な色彩形態の体験のただなかに立たせようとするのである。アクション・ペインティングでは、画面を描く行為の場と規定している。
絵画はタブローの時代を過ぎて新しい概念を探っているといえよう。
[野村太郎]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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…物体の表面に塗料を用いて,塗膜または塗膜層をつくる作業の総称。単に塗るだけの操作をいう場合は〈塗り〉〈塗付け〉等と称する(JIS用語)。塗装する場合は最初に塗装設計を立てることがたいせつである。塗装設計の立案にあたって必要な事項は,たとえば木材塗装の場合は塗料の決定(数量,素材の材質,性能と作業性,価格など),作業の順序と進め方(素材の状態,着色や目止めなどの下地の有無,塗り回数,仕上がりの程度,塗装手段,運搬方法,乾燥方法など),さらに総所要時間,材料費・工賃・諸経費などの塗装費で,これらが塗装仕様を決定するための要因となる。…
…また後にレオナルド・ダ・ビンチによって書き残されたメモのなかにも,〈カメラ・オブスキュラ〉の名がたびたび使われており,それが実在していたと推測される。そして同じイタリアの自然哲学者G.B.dellaポルタの《自然魔術》(1558)の記述では具体的に,カメラ・オブスキュラの絵画への応用を推奨している。カメラ・オブスキュラとはラテン語の〈暗い部屋〉の意味で,閉じた暗い部屋(箱)の側面に小穴を設け,向いの側面に,この穴を通して外部の画像を写し出す装置のことである。…
…〈美術〉という語は東洋古来のものではなく,西洋でいうボーザールbeaux‐arts(フランス語),ファイン・アーツfine arts(英語),ベレ・アルティbelle arti(イタリア語),シェーネ・キュンステschöne Künste(ドイツ語)などの直訳であり,日本では明治初期以降用いられた。美の表現を目的とする芸術を意味し,したがって絵画,彫刻,建築,工芸などのほか,詩歌,音楽,演劇,舞踊などをも含むものとされた。明治時代には文学も美術に加えられていた(坪内逍遥《小説総論》など)。…
※「絵画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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