パドモア(英語表記)George Padmore

改訂新版 世界大百科事典 「パドモア」の意味・わかりやすい解説

パドモア
George Padmore
生没年:1902か03-59

1930年代半ばから50年代末期にかけて活躍した代表的パン・アフリカニスト。トリニダード出身の黒人で,本名マルコム・ナースMalcolm Ivan Meredith Nurse。1924年に渡米してハワード大学などで学び,27年アメリカ共産党に入党した。29年以降は主としてヨーロッパを舞台に共産主義運動と黒人運動を結びつける努力を続け,赤色労働組合インター(プロフィンテルン)の黒人ビューロー議長も務めた。反ファシズム統一戦線戦術に反発し,34年6月コミンテルンから追放された。この頃からパン・アフリカニズムへの傾斜を強め,44年末のパン・アフリカ連盟創設に貢献,45年10月の第5回パン・アフリカ会議ではエンクルマとともに書記を務めた。57年ガーナに移り,エンクルマの政治顧問として大きな役割を果たした。主著に《パン・アフリカニズムあるいは共産主義?》(1956)がある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パドモア」の意味・わかりやすい解説

パドモア
ぱどもあ
George Padmore
(1903―1959)

アフリカ解放運動の指導者。本名はMalcom Nourse。1903年西インド諸島のトリニダードで生まれ、アメリカで育った。フィスク大学で歴史学と政治学、ハワード大学で法律学を修めた。早くから汎(はん)アフリカ運動に参加、彼がドイツで発行していた新聞『黒人労働者』の反ナチス的記事のため1933年逮捕された。終始エンクルマのガーナ政府の熱心な協力者として活躍、パン・アフリカニズムの理論家として、とくに英語を話すアフリカ諸国の若手ナショナリストに影響を与えた。主著は『ゴールド・コースト革命』(1953)、『パン・アフリカニズムかコミュニズムか』(1956)。

[柴田平三郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パドモア」の意味・わかりやすい解説

パドモア
Padmore, George

[生]1902/1903. タカリグア
[没]1959.9.23. アクラ
1930年代後半から 50年代末期にかけての代表的な汎アフリカ主義者。本名 Malcolm Ivan Meredith Nurse。トリニダード出身のアフリカ系人。パンフィリアン高校を卒業し一時出版社に勤務。 24年渡米し,フィスク大学を経てニューヨーク大学,ハワード大学の法学院で法律学を学んだ。 27年アメリカ共産党に入党。 28年改名し,ハーレムの黒人向け党機関紙『ニグロ・チャンピオン』 (1929年『リベレーター』と改称) の編集者。 29年反帝国主義民族独立同盟 LAIの第2回会議に出席,以後主としてヨーロッパを舞台に共産主義運動と黒人運動の連結化のために活動。 30年第1回黒人労働者国際会議開催尽力。 34年6月コミンテルンから追放された前後から汎アフリカ主義への傾斜を強め,44年末の汎アフリカ連盟設立に貢献。以後も主としてロンドンにあって汎アフリカ運動に没頭,57年独立ガーナに移り,エンクルマの政治顧問として第1回アフリカ諸国会議 (58.4.) ,第1回全アフリカ人民会議 (58.12.) の開催に大きな役割を果した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「パドモア」の意味・わかりやすい解説

パドモア

1930年代後半から1950年代末期に活躍した代表的パン・アフリカニスト。トリニダード出身のアフリカ系人で本名マルコム・ナースMalcolm Nurse。米国留学中に米国共産党入党,のちコミンテルンで活動。転向後エンクルマの政治顧問となった。→パン・アフリカニズム
→関連項目西アフリカ学生同盟

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android