( 1 )「━主義」という言い方がまだ確立されていなかった明治初期は、「哲学字彙」に「communism 共産論」とあるように「━論」が多かった。しかし、ほぼ同じ頃、「社会主義」が現われ、間もなく一般化したのに伴って、「共産論」も「共産主義」に改訳された。
( 2 )ロシア革命以前、「共産主義」は、財産をすべての人の共有にするという意味、つまり「社会主義」のより徹底した主義という意味に理解されていたが、より厳密に定義されて用いられるようになるのは、コミンテルン発足(一九一九)後、特に日本共産党が結成(一九二二)されてからである。→社会主義・主義
共産主義ということばはラテン語のコムーネcommuneに由来する。思想としての共産主義、社会主義は18世紀末から19世紀前半の西欧で生まれ、それらは、私有財産制度をなくし、財産をなんらかの共同体(コンミュンcommune)の所有に移すことを主張した。
[稲子恒夫]
当時はさまざまな共産主義、社会主義の思想があったが、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』(1848)は、封建的社会主義、小ブルジョア社会主義、「真正」社会主義、保守的社会主義またはブルジョア社会主義、批判的・ユートピア的社会主義または共産主義を批判している。資本主義を観念的に否定する初期の共産主義、社会主義と違い、マルクスとエンゲルスは、資本主義の発展法則を解明し、生産力の発展と生産関係の矛盾の結果として、資本主義から共産主義への移行を予測するとともに、共産主義は労働者階級の革命により実現されるという理論を創造し、これにより共産主義の思想を国際的な共産主義運動と結び付けた。
マルクスとエンゲルスは社会体制としての共産主義を二つの段階に分けた。共産主義の第一段階(現在の用語では社会主義)では、生産手段は国家の手に集中され、したがってその私的所有は廃止されるが、個人への所得の分配は各人の労働に応じて行われ、そのため人々の所得の差は残る。資本主義から共産主義の第一段階への移行期は、労働者階級の政治的支配を意味するプロレタリアート独裁を必要とする。第二段階は、もっと高度な、完全な共産主義である。それは、生産力と人々の道徳が高度に発展し、個人が完全に解放される社会であり、国家にかわる自主管理の組織が社会を管理し、個人への生産物の分配は、各人の必要に応じて行われ、したがって生活における平等が実現する。
[稲子恒夫]
1917年のロシアでの社会主義革命(十月革命)の成功は、共産主義が単なる運動から、共産主義の実現を任務とする国家をもつという新段階が生まれたことを意味する。革命に成功したロシア社会民主労働党(ボリシェビキ)は、1918年に党名をロシア共産党(ボリシェビキ)=のちのソ連共産党に変え、19年に結成の共産主義インターナショナル(コミンテルン。1943年解散)は、加入の各国の党の名称を共産党に統一した。以後は各国共産党の活動が共産主義運動とよばれている。各国の共産主義運動では、長い間、ロシア(ソ連)の革命と社会主義建設が唯一の先例としてモデルの役割を果たしてきた。しかし、ソ連での経験と理論には一般化できない特殊のものが多いことが、通説となっていた。
マルクス主義の文献でも社会主義と共産主義は厳格に区別されていなかったが、十月革命後は、マルクスのいう共産主義の第一段階を社会主義とよび、共産主義の第二段階だけを共産主義とよぶようになった。革命後のロシア(ソ連)で当面の課題になったのは、社会主義の建設であったが、この事業は、戦争で破壊された国民経済の復興、重工業の育成による経済的後進性の克服とあわせて行われたし、とくに膨大な数の農民経営を社会主義的経営に統合することは、レーニンが指導した1920年代初期には長期間を必要とすると考えられていた。実際にはスターリンの指導のもとに、1920年代の終わりから30年代の初めにかけて、国民経済の工業化が達成され、個人農経営を一挙に生産農業協同組合であるコルホーズに統合する政策も強行され、30年代なかばにはソ連では国民経済の全分野に社会主義体制ができあがった。こうして生まれた社会主義体制は多くの問題を抱えており、そのためスターリンの指導のもとに制定された1936年のソ連憲法は、社会主義体制の強化について記したが、次の課題である共産主義建設については記さなかった。
共産主義建設を最終課題としたソ連の政治システムも、ソ連の置かれた状況に左右されてきた。革命直後に示されたモデルは、国家の組織を勤労者自身の組織として編成することであり、勤労者が単に議員を選挙するだけでなく、全住民が日常的に国家の統治に参加し、これにより官僚主義をなくし、国家の死滅を用意するということであった。同時に革命直後の困難な政治状況のなかで、強固なプロレタリアート独裁の確立という現実的な要請が優先し、そのため民主主義の制限が行われた。1936年のソ連憲法は、これらの制限をなくし、選挙中心の民主主義的制度を定めたが、個人が統治に直接に参加することは記さなかった。この憲法の施行後も、スターリンはソ連が依然としてプロレタリアート独裁の国家であると主張し、彼の指導のもとで憲法の民主的諸規定は守られず、個人の政治的権利も尊重されず、そのため行政機構中心の官僚主義的な統治体制がつくられた。
1953年のスターリンの死後のソ連では、憲法の定める社会主義的民主主義の遵守の必要が強調されたが、一歩進んでソ連共産党はフルシチョフの指導のもとに、59年にソ連が共産主義の全面的建設期にあるという命題を採択し、同党の61年の綱領はプロレタリアート独裁の終了を確認するとともに、共産主義への移行の20か年計画を決めた。これによると、国民経済の急速な発展によりソ連は1980年に、国民1人当りの所得で世界一になり、この時点で日常生活に必要な消費財の3分の1が無料分配される。この党綱領によると、国家の若干の機能、とくに社会秩序維持機能が、自発的に組織された社会的自主管理機関に移されていき、これに伴い国家組織が縮小する。また国家機関の公選制が拡大し、同一の人間の多選が制限され、執行機関の構成員も系統的に入れ替えられ、一般の勤労者が余暇に行政に参加し、有給の公務員の数が減らされる。この過程の進行により国家そのものが社会的自主管理機関に転化していく。しかし党綱領は、共産主義建設での個人の権利と自由の拡大については具体的に記していなかった。
1964年のフルシチョフの解任後に、ソ連は共産主義の全面的建設期にあるという命題は撤回された。かわりにブレジネフの指導のもとで制定された1976年のソ連憲法は、ソ連が共産主義への移行を準備する発達した社会主義の段階にあり、この段階はかなり長期にわたるという命題を確定し、社会主義的民主主義の発展、社会団体・労働集団・個人の国家と社会の業務の管理への参加の拡大、効率の高い経済管理の実現、個人の権利と自由の発展などを課題として掲げた。しかし憲法の施行後、国民経済の管理の改革、個人の権利と自由の保障のための改革は進まなかった。1983年にアンドロポフの指導のもとにソ連共産党中央委員会総会は、ソ連が発達した社会主義のまだ出発点にあるにすぎず、発達した社会主義の改善が戦略的課題であることを決めた。またアンドロポフは、民主主義的な制度の運営が形式的なものになっている状態に宣戦を布告しなければならないと語った。1984年の彼の死後チェルネンコにも、その路線は継承された。このような状況のソ連では、将来の共産主義についての先走った議論はなくなり、1991年ソ連は崩壊した。
[稲子恒夫]
チェコスロバキアの1960年憲法は共産主義建設を直接の課題として掲げたが、それはまったくの時期尚早のものであった。1968年のチェコ事件、80年代初めのポーランド情勢(自主管理労組「連帯」の誕生、それに続く軍政の実施)は、社会主義体制の改革を怠ることは深刻な政治危機をもたらすことを示した。大半の東欧諸国は改革を志向したが、そのなかでハンガリーは、工場内の民主主義を政治生活の基礎に置くことにより、政治生活の活性化を図った。旧ユーゴスラビアは1950年代以来、企業の自主管理組織を全政治システムの基礎に置いてきた。
ソ連、東欧諸国では共産党の強力な指導体制が確立していた。若干の東欧諸国は複数政党制をとっていたが、共産党以外の政党の地位は低かった。また個人の真の自由は、集団と組織を通しての政治への参加により実現されるという考えが支配的になっており、これと対照的に、出版の自由その他の政治的自由は十分には保障されていなかった。このような状態の社会主義に対して西欧諸国と日本の共産党は批判的であり、1970年代に、複数政党、とくに野党が存在し、政治的自由が完全に保障された社会主義を目ざす「ユーロコミュニズム」の潮流が現れた。しかし、1980年代後半に東欧諸国は民主化し、共産主義を放棄した。
[稲子恒夫]
中国では、1949年の中華人民共和国の成立以後、着実にゆっくりと社会主義を建設するという路線と、急激な社会主義化を主張する毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)の路線が対立し、58年に毛沢東の指導のもとに、農村を一挙に共産主義化する路線が強行された。すなわち、農民は軍隊をモデルにした巨大な人民公社に組織され、号令に従い農作業が行われ、食事も集団で無料で行われるという、いわゆる兵営式共産主義が実行された。この措置は農業生産の破壊をもたらし、その収拾をめぐり中国共産党の指導部は分裂し、1966年に毛沢東派は「文化大革命」による反対派の弾圧を始めた。1976年の毛沢東の死後、中国共産党は毛沢東主義から離れ、工業、農業、国防、科学技術の「四つの近代化」の路線を掲げたが、政治の近代化は掲げていない。毛沢東の時代には、日本を含む各国の左翼に中国の礼賛者が生まれたが、毛沢東後の中国は外国に対するイデオロギー的影響力をなくしている。
[稲子恒夫]
『マルクス、エンゲルス著、大内兵衛・向坂逸郎訳『共産党宣言』(岩波文庫)』▽『マルクス、エンゲルス著、ML研究所訳『共産党宣言 共産主義の原理』(大月書店・国民文庫)』▽『マルクス著、望月清司訳『ゴータ綱領批判』(岩波文庫)』▽『エンゲルス著『空想から科学へ』(大内兵衛訳・岩波文庫/寺沢恒信訳・国民文庫)』▽『レーニン著『国家と革命』(宇高基輔訳・岩波文庫/レーニン全集刊行委員会訳・国民文庫)』▽『山中隆次「マルクス主義」、稲子恒夫・加藤哲郎「現代の社会主義」(『社会思想事典』所収・1982・中央大学出版部)』▽『G・マルチネ著、熊田亨訳『五つの共産主義』上下(岩波新書)』▽『R・メドヴェーデフ著、石堂清倫訳『共産主義とは何か』上下(1974・三一書房)』
共産主義という言葉は,共有財産を意味するラテン語のcommuneに由来している。共産主義とは,私有財産を否定して財産の共有の状態と,共有財産にもとづく社会・政治体制を実現しようとする思想と運動である。
共産主義の思想は,人類の歴史と同じように古い。私有財産,貧富の差,支配者と被支配者の対立が発生するとともに,古代ではプラトンの国家論とキリスト教の教義に,中世では修道院の生活と農民一揆の運動の中に,共産主義は多様な形式のもとで出現した。その多くは,文明の進歩によって腐敗させられていない過去の理想社会(原始共産主義社会)への復帰を求めた。近代の初頭には,モアの《ユートピア》(1516)やカンパネラの《太陽の都》(1623)など,この地上のどこかに私有財産制を否定して生産と分配を共産主義的に組織する理想社会が構想された。A.N.モレリーの《自然の法典》(1775)やG.B.deマブリーの《立法について》(1776)の共産主義は自然法にもとづく平等思想に立っているが,現実を変革する構想はまったく欠けていた。17世紀イギリス革命におけるディガーズの運動やフランス大革命におけるバブーフを中心とする平等派においては,共産主義思想を実現するための運動が具体的に存在していた。とくにバブーフは,〈財産と労働の共同体〉の実現を目指して権力奪取をはかった。彼の蜂起は失敗に終わったが,その思想は継承され,1830年代にF.ブオナローティ,L.A.ブランキらを中心とするパリの革命的秘密結社の中で発展させられていった。
共産主義communismeという言葉の最初の用例の一つは,1840年代初めに出たÉ.カベの《共産主義的信条Comment je suis communiste et mon credo communiste》であるとされている。同じ時期のイギリス,フランスで社会主義という言葉が用いられるようになっていたが,社会主義がもっぱら生産手段の社会的所有ないし国有化を唱えたのに対して,共産主義は消費財を含めた財産のより徹底した平等化を主張した。マルクスとエンゲルスが1847年に共産主義者同盟Bund der Kommunistenの委嘱を受けて《共産党宣言》を執筆したときには,社会主義と共産主義の区別は明確に意識されていた。1888年にエンゲルスが英語版《共産党宣言》のために書いた序文によると,社会主義がイギリスのオーエンやフランスのサン・シモンとフーリエの思想のような空想的社会主義を指し,これらの思想家が労働運動の外に立っていたのに対して,〈労働者階級の中にあって,たんなる政治的革命では無力であると信じ,社会の根本的変革が必要であると宣言した人々は,いずれもみずから共産主義者と称した〉という。現実に1840年代から1870年代の初頭にかけて,共産主義は資本主義社会を暴力的に転覆するための革命行動を意味し,社会主義は議会政治への参加等の合法的・立憲主義的手段によって経済体制を生産手段の国有化の方向に向かって改革する運動を指していた。しかし1871年のパリ・コミューンの崩壊を転機として,両者の区別は曖昧になり,むしろ共産主義という言葉が消滅したかのように見えた。フランス語のコミューンcommuneは市町村の行政単位を指す言葉であるが,マルクスは1871年に刊行された《フランスにおける内乱》で,コミューンの代表者からなる政府を〈本質的に労働者階級の政府であり,有産階級に対する勤労階級の闘争の所産であり,労働の経済的解放を達成することができる,遂に発見された政治形態である〉と述べた。そのため,コミューン運動参加者communardsもまた共産主義者と呼ばれるようになった。いわば社会主義が共産主義の経済的側面を指すのに対して,コミューンで実現されたといわれるプロレタリア独裁が共産主義の政治的側面となった。
またマルクスは1875年の《ゴータ綱領批判》において,プロレタリア独裁によって実現される社会を2段階に区別した。第1段階の低次の共産主義社会では,人々は〈その能力に応じて“働き”,その労働に応じて“取る”〉。それに対して高次の第2段階においては,各人は〈能力に応じて“働き”,その必要に応じて“取る”〉。そこでは階級は消滅し,したがって階級抑圧の機関である国家も死滅する。また分業に対する奴隷的な服従,精神労働と肉体労働の区別がなくなり,労働は生活の手段ではなくて生活の要求となり,生産力の増大とともに個々人の全面的な発展が可能とされた。レーニンは後に,このマルクスのいう第1段階を社会主義と呼び,第2段階を共産主義と呼んだ。
レーニンは,第1次大戦の勃発とともに第二インターナショナルが思想的に破産したと判断し,マルクス主義の共産主義的部分を復活させることを意図して《国家と革命》(1917)を書いた。そして,コミューン型の国家をモデルにロシアのソビエトを基盤とした革命政権を樹立した(十月革命)。1917年の〈四月テーゼ〉においては,社会民主労働党ボリシェビキ派の名称を共産党と改めることを提唱し,革命後の18年には正式に改称された。19年に共産主義インターナショナル(コミンテルン)が樹立されるとともに,共産主義はボリシェビズム,あるいはマルクス主義,レーニン主義の思想と運動として世界的な規模で成立した。そして第二インターナショナル以来の社会主義は社会民主主義として,共産主義者の悪罵を受けることになった。
→共産党 →社会主義 →マルクス主義 →ユーロコミュニズム
執筆者:河合 秀和
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マルクス‐レーニン主義をさすことが多い。広くは財産の共有制をさす。プラトンや初期キリスト教徒の考えた理想郷,近世ではトマス・モアの『ユートピア』などの世界も共産制である。階級差別がなく,生産設備は個人ではなしに社会が所有し,生産と分配は社会が行う。各人はその能力に応じて働き,好きなだけ消費してよい。国家権力が消滅して各人の自由な協同がこれに代わる。これがマルクス主義者や共産党の描く理想郷である。20世紀に出現した現実の共産国家においては共産党の指導統制が中心で,人民に十分な自由はなく,あらゆる面で国家権力が強まる一方であった。
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…戦間期から第2次世界大戦半ばにかけ国際共産主義運動に君臨した指導・統制センターであった〈共産主義インターナショナルCommunist International〉(ロシア語ではKommunisticheskii Internatsional)の略称。
【歴史】
[創設]
労働運動,労働者政党の国際的組織化をめざす試みはすでに1840年代のヨーロッパにみられたが,その後労働運動の発展と社会主義政党の成長とともに,第一インターナショナル(1864‐76),第二インターナショナル(1889‐1914)が誕生した(インターナショナル)。…
…しかし近代的な意味での社会主義という用語は,およそ1830年前後に,フランスではフーリエとサン・シモン,イギリスではオーエンの思想を指す言葉として最初に登場する。他方で1840年代のパリでは,徹底した財産の共有と国家権力の奪取をめざす共産主義者の結社が生まれており,1848年にマルクスがイギリスの経済学,フランスの社会主義をドイツの観念論哲学と批判・融合して《共産党宣言》(エンゲルスと共著)を発表し,マルクスはそれまでの社会主義を空想的社会主義と呼んでみずからの科学的社会主義をそれに対置させた。それまでの社会主義が資本主義の悪弊にたいして人間主義的,道徳的な非難を向けたのにたいして,マルクスは過去の歴史と資本主義の現実にたいする科学的分析のうえに社会主義を構想した。…
…フランス革命の末期に,一種の共産主義思想を抱いて政府転覆事件を起こした革命家,思想家。古代ローマの改革者グラックス兄弟の名をとって,みずからグラックス・バブーフと名のった。…
…ドイツの共産主義思想家・運動家,いわゆるマルクス主義の祖。
[略伝]
ライン・プロイセンのトリール市でユダヤ人の家庭に生まれた。…
※「共産主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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