パン・アフリカニズムとは,19世紀末にアメリカ合衆国やカリブ海地域のアフリカ系知識人によって生み出され,第2次世界大戦前は主として欧米各地を舞台に,戦後はアフリカ・ナショナリズムと結合して,おもにアフリカを舞台として,成長,発展した〈アフリカ人,アフリカ系人の主体性の回復およびアフリカの歴史的復権,独立と統一〉を目ざすイデオロギー運動である。
その前半期すなわち第2次世界大戦以前の時期には,運動はパン・アフリカ会議を主軸として展開された。まず1900年にトリニダードのアフリカ系人弁護士シルベスター・ウィリアムズHenry Sylvester-Williamsの提唱で,パン・アフリカ会議Pan-African Conferenceがロンドンで開催され,アフリカへの西欧植民地主義の侵略と人種的差別に対する抗議を,会議の名において行った。一般にこの会議の意義は,初めてアフリカ(系)人国際主義を組織化したこと,パン・アフリカという言葉を世に知らせたことなどであるとされているが,ビクトリア女王から〈アフリカにおける原住民諸人種の利益と福祉を無視しない〉との約束を得たことも注目されてよい。その後しばらく運動は低迷したが,第1次世界大戦終結直後の19年にアメリカ合衆国の黒人運動家デュ・ボイスがパリでパン・アフリカ会議Pan-African Congressを開催した。会議はドイツ領アフリカを国際管理のもとに置くこと,アフリカ人に対する国際的保護の法制度化,アフリカ植民地における漸進的・段階的自治の推進,天然資源の涸渇防止,アフリカ人に対する教育の普及などを求める決議を採択し,これを契機に運動は再び活発化した。なお通常は19年の会議を第1回パン・アフリカ会議と呼ぶが,それは同会議が1900年の会議conferenceと違って初のcongressとして開催されたこと,実行可能性を感じさせる〈アフリカ人の自治〉要求を控え目な調子ながら打ち出したこと,に意義をもつからである。
デュ・ボイスはさらに21年にロンドン,ブリュッセル,パリ,23年にロンドン,リスボン,27年にニューヨークとたてつづけにパン・アフリカ会議を開催した。29年にはアフリカでの開催を計画してチュニス(当時はフランスの植民地)を候補地に選んだが,フランスに拒否されて果たさないうちに世界大恐慌が起こったため,それまで得てきた全米黒人向上協会(NAACP)の資金援助がとだえたこともあって,第2次世界大戦後まで会議運動は中断するにいたった。
しかしこの間,35年にイタリアのエチオピア侵略が起こると,在英アフリカ人,アフリカ系人によってエチオピア支援のためのアビシニア国際アフリカ人友好協会がロンドンに設立され,それを契機にパン・アフリカニズムは新たな広がりを見せはじめた。同協会の後をうけて,37年ロンドンに国際アフリカ人サービス・ビューローが設立され,文化的啓蒙活動を中心にパン・アフリカニズム志向の育成に努めた。44年にマンチェスターに創設されたパン・アフリカ連盟はその後継的組織である。同連盟の準備活動を基礎に,第2次世界大戦直後の45年10月マンチェスターで第5回パン・アフリカ会議が開催された。この会議は,運動の主導権がそれまでのアフリカ系知識人からエンクルマらアフリカ知識人に移ったこと,多数のアフリカの政党,政治組織の参加を得てアフリカ・ナショナリズムと結合したこと,などの点で画期的な会議であった。
これ以後パン・アフリカニズムはアフリカ大陸に導入され,アフリカの独立と統一を直接の目標として一大飛躍を遂げた。この間エンクルマらの推進した〈アフリカ合衆国〉創設運動は挫折したが,63年にはアフリカ統一機構(OAU)が創設され,南アフリカ共和国を除く全アフリカの独立国の大同団結が実現した。しかし反面,アフリカに導入されて以後,パン・アフリカニズムは過度にアフリカ化された結果,圏外のアフリカ系人との関係が希薄化し,その分だけ矮小化したともいえる。そうした欠陥を補うべく,74年6月タンザニアのダル・エス・サラームで29年ぶりに第6回パン・アフリカ会議が開催され,アメリカ合衆国,カリブ海諸国,ヨーロッパ諸国からも多数のアフリカ系人代表が参加したが,その後は目だった動きはない。
→ネグリチュード
執筆者:小田 英郎
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アフリカ大陸の諸民族,アフリカ系諸民族の主体性の回復,歴史の復権,独立と統一を目標とする運動。1900年トリニダード出身アフリカ系弁護士S.ウィリアムズが,ロンドンで初のパン・アフリカ会議(コンフェレンス)を開催。19年アメリカの黒人解放運動指導者デュボイスがパリで第1回パン・アフリカ会議(コングレス)を開催し,21~27年ロンドン,パリ,ニューヨークなどでの会議で,アフリカの自治推進などを採択。第二次世界大戦後,45年第5回マンチェスター会議で運動の主導権はエンクルマなどアフリカ諸地域の知識人・活動家の手にわたり,民族独立運動を支える役割を担う。74年のダル・エス・サラームでの第6回会議以降運動は沈滞。「アフリカ合衆国」構想は挫折したが,その精神はアフリカ統一機構(OAU)が継承。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…アフリカのナショナリズム運動が,いずれの国の植民地であるかにかかわりなく全大陸的規模で高揚し,独立をめざして本格的に植民地主義と対決するようになるのは,第2次世界大戦後であった。 ナショナリズム運動とならんで,アフリカの解放に大きな役割を果たしたものにパン・アフリカニズム運動がある。19世紀末期のアメリカ合衆国および西インド諸島のアフリカ系人のあいだに生まれたパン・アフリカニズム志向は,1900年にシルベスター・ウィリアムズによってロンドンで開かれたパン・アフリカ会議を機にはっきりした一個の運動へと発展した。…
※「パンアフリカニズム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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