プロフィンテルン(読み)ぷろふぃんてるん(英語表記)Profintern

日本大百科全書(ニッポニカ) 「プロフィンテルン」の意味・わかりやすい解説

プロフィンテルン
ぷろふぃんてるん
Profintern

赤色労働組合インターナショナルКрасный интернационал профсоюзов/Krasnïy internatsional profsoyuzovの略称ロシアの十月革命(1917)とそれに続く全世界の労働運動の革命的高揚を背景にして1921年7月モスクワで創立、本部もモスクワに置かれた。その直接の母体となったのは20年にモスクワで結成された国際職業別・産業別労働組合評議会であった。加盟したのはソ連ブルガリアのそれのような革命的労働組合、フランス統一労働総同盟のようにアムステルダム・インターナショナル傘下組合から除名された戦闘的組合、ならびにアムステルダム・インターナショナル傘下組合内の革命的反対派であった。日本では日本労働総同盟(総同盟)内の「レフト」、日本労働組合評議会(評議会)がこれと連携をもち、日本労働組合全国協議会(全協)が正式加盟していた。

 プロフィンテルンは、初めはかならずしもアムステルダム・インターナショナルに対抗する別個の国際労働組合組織として創立されたのではなく、全世界の労働組合運動を戦闘化、革命化しつつ統一することを目ざす宣伝・教育活動にその主眼を置いていた。ソ連労組内にはこれをコミンテルンの組織の一部にするとか、両組織の執行委員を相互交換するという意見が強かったが、こうした政党と労働組合を混同する見解は克服され、両者を自主的なものとして組織し、両者が協力・共同するという原則にたってこそ、労働者階級は最大限にその力量を発揮できることを明らかにした。

 それはまた、産業別組織を独占資本主義段階における労働組合の主要組織形態と規定し、産業別組織化運動の先頭にたつとともに、アムステルダム・インターナショナルがその活動を西欧の資本主義国に限る傾向があったのとは対照的に、植民地・半植民地諸国における組織化運動に力を注ぎ、中国、インド、エジプトチュニジア、ラテンアメリカ諸国などの労働組合運動の発展に大きく貢献した。

 1928年以後プロフィンテルンは一時セクト主義的・極左主義的傾向に陥り、改良主義的組合を「資本主義の学校」と規定して、左翼反対派をこれから脱退させる方針をとったが、35年以降、こうした過ちを克服し、反戦・反ファシズムのため労働組合の行動統一と組織統一を実現するために全力をあげ、労働組合戦線統一に成功したフランスの例にみるように、順次傘下組織を切り離し、37年12月に解散した。

[中林賢二郎]

『G・M・アディベコフ著、梅田美代子訳『プロフィンテルン小史』(大月書店・国民文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プロフィンテルン」の意味・わかりやすい解説

プロフィンテルン
Profintern

1921年に設立された赤色労働組合の国際的組織。赤色労働組合インターナショナル Internatsional Professionaljnykh Sojuzovの略称。 20年7月モスクワに集ったソビエト・ロシア,イタリア,スペイン,ユーゴスラビア,ブルガリアの労働組合代表は,アムステルダム・インターナショナルとは異なった革命的な労働組合の国際組織を結成することを宣言し,社会主義革命の達成とプロレタリア独裁の樹立を目的とする基本方針を明らかにした。 21年7月モスクワで創立大会が開かれて正式に成立。 35年のコミンテルン第7回大会が反ファッショ統一戦線戦術に転換したのに伴い,37年末には実質活動を停止し,43年コミンテルンとともに解散した。

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